手を出すこと、やってみること
「何にでも手を出しなさい」というのは、森田博士が弟子に言った言葉。
森田正馬の思い出を入院生や弟子たちが書いたエピソード集に出てきます。
弟子の名前は舘野健氏。当時彼は学生で森田の家に入院していました。
彼は趣味で声楽を習っていて、試験勉強をしなければならない時期に、夜、庭に出て発声練習などをしていたそうです。
どうやら、その声は森田先生の部屋まで聞こえたらしく、ある日、森田先生が「舘野君は声楽を習っているそうですな」と話しかけてきた。
試験の時期に発声練習をしていたわけですから、てっきり怒られると思った彼に森田はこういうのです。
「僕も試験勉強中に三味線を習ったことがあります」
そしてこう続けます。
「何にでも手を出しなさい。僕の療法(森田療法)も、西洋の療法と言わず、民間療法と言わず、あらゆる療法に手を出してやってみた結果、自然にできたもので、はじめから作り出そうと思ってやったことではありません」
またあるとき、森田先生の病室に弟子や入院生が集まっていた際に、なんとなく皆が各々の顔を写生し始めたときがあったそうです。
ところがそこにいたドクターのなかで一人だけそれに加わろうとしなかった人がいた。
他の人が「いや、彼は絵が苦手だから・・」とかばいます。
(神経質ならこの描かなかった人の気持ちわかりますよね。下手な絵を見られるのが嫌だったのでしょう)
ところが森田先生は描かなかった彼にこう言います。
「上手とか下手とかにとらわれず何にでも手を出さなければ、自分の本職のほうにしろ、一人前になれません」
かなり厳しい口調だったので、その場は一瞬ピリッとした空気に包まれたそうです。
現代の私たちは、こんなふうにいろいろなことに手を出して学んでいく余裕がないようです。
効率とか成果とかにとらわれて、いわゆる「正規」なコース、最短距離でどこかへ到達することに執着しているのかもしれません。
子供たちは遊ぶことを忘れ、中高生になると遊ぶことが「悪」であるかのように言われ、成長する過程で、「何かを試してみる」とか「ちょっとやってみる」とかいう余裕を持てない。
会社に勤めれば長時間労働で、趣味を持つのは定年過ぎまで待とうという状況。
創造性が育つわけがないですね。
でもそれだけではなく、なんとなく新しいことに手を出すのを躊躇してしまうクセがある人もいます。
悲観的長期予想をするのが得意だと、「どうせこれをやってもものにならない、この歳から始めたってしかたない」と思って最初から諦めてしまう。
あるいは秩序好きな人は、「私は今、あれとこれをやっていて忙しいから、これが収まって、あれが片付いたら始めよう」と、いつまでも取りかからないで、結果的に新しいことをする順番が永遠にまわってこない。
損得勘定が発達しすぎていると、そんな余分な出費をしてまで手を出す意義がわからず、結果、狭い世界のなかで人生を終えてしまう。
いつでも「意味探し」をする人は、「私はいったい何をやりたいのだろう」「私の好きなことは何だろう、本当にこれだろうか」と問い続け、頭のなかから一歩も出られないで終わるかもしれません。
ネットを探してみれば、自分のやってみたいことや、新しく始めたい趣味が、意外に手軽にできるチャンスがたくさんあります。
自分の悩みの解消方法ばかり検索していないで、ネットで見つけた教室やレッスンに気軽に参加してみるほうが、自分の世界を広げてくれるし、悩みから離れるチャンスになるかもしれない。
新しい経験は思いがけないことをあなたに教えてくれると思います。
There is no harm in trying という英語の慣用句があるそうです。
つまり「試して損はない」。
私もこの秋は新しいことに挑戦してみたいと思います。
森田正馬の思い出を入院生や弟子たちが書いたエピソード集に出てきます。
弟子の名前は舘野健氏。当時彼は学生で森田の家に入院していました。
彼は趣味で声楽を習っていて、試験勉強をしなければならない時期に、夜、庭に出て発声練習などをしていたそうです。
どうやら、その声は森田先生の部屋まで聞こえたらしく、ある日、森田先生が「舘野君は声楽を習っているそうですな」と話しかけてきた。
試験の時期に発声練習をしていたわけですから、てっきり怒られると思った彼に森田はこういうのです。
「僕も試験勉強中に三味線を習ったことがあります」
そしてこう続けます。
「何にでも手を出しなさい。僕の療法(森田療法)も、西洋の療法と言わず、民間療法と言わず、あらゆる療法に手を出してやってみた結果、自然にできたもので、はじめから作り出そうと思ってやったことではありません」
またあるとき、森田先生の病室に弟子や入院生が集まっていた際に、なんとなく皆が各々の顔を写生し始めたときがあったそうです。
ところがそこにいたドクターのなかで一人だけそれに加わろうとしなかった人がいた。
他の人が「いや、彼は絵が苦手だから・・」とかばいます。
(神経質ならこの描かなかった人の気持ちわかりますよね。下手な絵を見られるのが嫌だったのでしょう)
ところが森田先生は描かなかった彼にこう言います。
「上手とか下手とかにとらわれず何にでも手を出さなければ、自分の本職のほうにしろ、一人前になれません」
かなり厳しい口調だったので、その場は一瞬ピリッとした空気に包まれたそうです。
現代の私たちは、こんなふうにいろいろなことに手を出して学んでいく余裕がないようです。
効率とか成果とかにとらわれて、いわゆる「正規」なコース、最短距離でどこかへ到達することに執着しているのかもしれません。
子供たちは遊ぶことを忘れ、中高生になると遊ぶことが「悪」であるかのように言われ、成長する過程で、「何かを試してみる」とか「ちょっとやってみる」とかいう余裕を持てない。
会社に勤めれば長時間労働で、趣味を持つのは定年過ぎまで待とうという状況。
創造性が育つわけがないですね。
でもそれだけではなく、なんとなく新しいことに手を出すのを躊躇してしまうクセがある人もいます。
悲観的長期予想をするのが得意だと、「どうせこれをやってもものにならない、この歳から始めたってしかたない」と思って最初から諦めてしまう。
あるいは秩序好きな人は、「私は今、あれとこれをやっていて忙しいから、これが収まって、あれが片付いたら始めよう」と、いつまでも取りかからないで、結果的に新しいことをする順番が永遠にまわってこない。
損得勘定が発達しすぎていると、そんな余分な出費をしてまで手を出す意義がわからず、結果、狭い世界のなかで人生を終えてしまう。
いつでも「意味探し」をする人は、「私はいったい何をやりたいのだろう」「私の好きなことは何だろう、本当にこれだろうか」と問い続け、頭のなかから一歩も出られないで終わるかもしれません。
ネットを探してみれば、自分のやってみたいことや、新しく始めたい趣味が、意外に手軽にできるチャンスがたくさんあります。
自分の悩みの解消方法ばかり検索していないで、ネットで見つけた教室やレッスンに気軽に参加してみるほうが、自分の世界を広げてくれるし、悩みから離れるチャンスになるかもしれない。
新しい経験は思いがけないことをあなたに教えてくれると思います。
There is no harm in trying という英語の慣用句があるそうです。
つまり「試して損はない」。
私もこの秋は新しいことに挑戦してみたいと思います。
先月は森田療法学会で倉敷に行ってきました。倉敷の美観地区
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