ホワイト・オランダ―
「最後の瞬間まで、母親は人生すべてで出会った人間のなかで、もっとも狂っている女、もっとも予測不能な女にとどまり続けるのでしょう。」
これはマルグリット・デュラスの言葉です。(「私はなぜ書くのか」より)
母親をそういうふうに感じる人もいれば、この言葉がまったくピンとこないかたもいるでしょう。
この頃、「毒親」などという言葉も流行っています。
きっと自分の親でさえなければ、その人は毒でもなく、ごく普通の人だったのかもしれません。
親と子という、あまりに近すぎる関係は、ごく普通の人の持ち味も「毒」に変えてしまうのでしょうか。
ジャネット・フィッチ(Janet Fitch)の小説 「White Oleander(邦題「扉」)」 には、文字通り「毒母」が出てきます。
これは「ホワイト・オランダ―」というタイトルで映画化されてもいます。ちょっと古い映画ですが。
ミシェル・ファイファーが美しい毒母を演じ、心優しい継母をレ二・セルヴィガーが演じています。
タイトルの「オランダ―」というのは「夾竹桃」のこと。
夾竹桃は、戦後原爆の落ちた広島の焼け野原に最初に生えた植物とか・・・。
強い生命力と、猛毒とをなかに潜ませた花です。
主人公アストリッドの母は詩人(映画では芸術家)。
強靭な自己愛を持ち、自分を捨てた恋人を夾竹桃の毒で殺します。
そして彼女はまだ12歳のアストリッドを残し、刑務所に収監されます。
アストリッドは、里親を転々としますが、母は刑務所のなかからも彼女を支配し、娘の愛を得た継母を言葉の毒で殺してしまいます。
その強烈な母を、ティーンエイジャ―のアストリッドがどのように乗り越え、成長していくかの物語です。
ただの自立とか、愛憎とかの物語として単純にまとめるだけではなく、いかに母と子という絆が複雑で切りがたいものか、そんな微妙なところも小説は「ブンガク的に」深く書き込んでいます。
そう、親に対する感情というものは、憎しみもあり愛もありながら、そんなふうに言葉で定義しきれない無限に複雑で微妙なものかもしれないと思います。
私たちは「自分がこうなったのは親の責任」とか「毒親」とか決めつけるだけではなく、人生のそれぞれの時期で親と関わりながら、そこで感じる微妙な思いを、ただ受け止める。
そして、その思いが変化するままにまかせる。
親への接し方とはそういうことでしかないのかなと、考えたりもするのです。



これはマルグリット・デュラスの言葉です。(「私はなぜ書くのか」より)
母親をそういうふうに感じる人もいれば、この言葉がまったくピンとこないかたもいるでしょう。
この頃、「毒親」などという言葉も流行っています。
きっと自分の親でさえなければ、その人は毒でもなく、ごく普通の人だったのかもしれません。
親と子という、あまりに近すぎる関係は、ごく普通の人の持ち味も「毒」に変えてしまうのでしょうか。
ジャネット・フィッチ(Janet Fitch)の小説 「White Oleander(邦題「扉」)」 には、文字通り「毒母」が出てきます。
これは「ホワイト・オランダ―」というタイトルで映画化されてもいます。ちょっと古い映画ですが。
ミシェル・ファイファーが美しい毒母を演じ、心優しい継母をレ二・セルヴィガーが演じています。
タイトルの「オランダ―」というのは「夾竹桃」のこと。
夾竹桃は、戦後原爆の落ちた広島の焼け野原に最初に生えた植物とか・・・。
強い生命力と、猛毒とをなかに潜ませた花です。
主人公アストリッドの母は詩人(映画では芸術家)。
強靭な自己愛を持ち、自分を捨てた恋人を夾竹桃の毒で殺します。
そして彼女はまだ12歳のアストリッドを残し、刑務所に収監されます。
アストリッドは、里親を転々としますが、母は刑務所のなかからも彼女を支配し、娘の愛を得た継母を言葉の毒で殺してしまいます。
その強烈な母を、ティーンエイジャ―のアストリッドがどのように乗り越え、成長していくかの物語です。
ただの自立とか、愛憎とかの物語として単純にまとめるだけではなく、いかに母と子という絆が複雑で切りがたいものか、そんな微妙なところも小説は「ブンガク的に」深く書き込んでいます。
そう、親に対する感情というものは、憎しみもあり愛もありながら、そんなふうに言葉で定義しきれない無限に複雑で微妙なものかもしれないと思います。
私たちは「自分がこうなったのは親の責任」とか「毒親」とか決めつけるだけではなく、人生のそれぞれの時期で親と関わりながら、そこで感じる微妙な思いを、ただ受け止める。
そして、その思いが変化するままにまかせる。
親への接し方とはそういうことでしかないのかなと、考えたりもするのです。
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