「愛」のようなもの

「のようなもの」という言葉が流行っているようで、借用してしまいました。

さて「愛」などという輸入語は、何かとても観念的な感じもしますね。
(今日本語で使用している意味での「愛」は、昔の日本の言葉では表せるものがなく、しいて言えば「仁」だという話を読んだことがあります)

日本語が「愛」という言葉を必要とするようになったのは、なんといっても「新約聖書」を翻訳輸入する必要があったからではないでしょうか(このところは推測ですが)。

私はクリスチャンではないのですが、中高とクリスチャンスクールだったので、新約聖書はよく読みました。
その内容を思い出してみると、キリストは、実に熱烈に「愛」を語っている人です。
2000年前の人なのに革新的です。

そんな刺激もあって、思春期には(実に観念的に)「愛」というものを考えたものです。

それでもよくわかりませんでした。

「愛」というものは、具体的な姿としてはあいまいかもしれませんが、しかし確実に存在するものでしょう。

それをどう考えるかは、人によって様々です。

相手を支配することが「愛」だと思う人がいる。

相手を心配することが「愛」だと思う人もいる。

相手を守って守って、困難を経験させないことが「愛」と思う人もいる。

自分を犠牲にして相手に尽くすことが「愛」と考える人もいる。

自分を好きになってくれる人がいたら、それが「愛」と思う人がいる。

相手が立派な経歴や社会的な立場を獲得するように支援することが「愛」と思う人もいる。

自分の考えを相手に注ぎ込んで、一心同体のようになれたら、それが「愛」だと考える人もいる。

自分を安心させてくれる人と一緒にいることが「愛」なのかもしれない。

ともに楽しみ、笑いあえるのが愛なのかもしれない。

本当によくわかりません。

ひとつだけわかるのは、私たちは皆、その「愛のようなもの」を原家族から教わるのだということ。

そしてたいていの人はその形を子へと伝えていくのでしょう。

「心配」にくるまれて育った人は、自分の子のことも心配でたまらない。

放任されて育った人は、子に干渉するのは愛することではないように思え、ひたすら子を放任する。

大抵の人がもらったのは「愛のようなもの」かもしれない。
でもそのなかには必ず、ほんの少しかもしれないけれど「愛」はあるのだと思います。

原家族から伝えられた「愛のようなもの」をヒントに、試行錯誤しながら人を愛することを学んでいくのが、私たちの人生なのかもしれないと思ったりするのです。


スワン



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プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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