自分の言葉が重い
妙なタイトルになりましたが、強迫的なかたのお話を伺っていると、何かご自身の言葉や考えでご自身を追い詰めているような感じがします。
別に周りからどうこう言われたわけではない。
(しかし、何か気になることを言われたりするともっと大変になります)
たとえば、単純な例で言えば、掃除をするのが「面倒くさい」。
そうすると、もうこの「面倒くさい」という言葉に押しつぶされてしまう。
頭のなかで「面倒くさい」と何回も繰り返したり、自分が掃除をする情景を思い浮かべたりすると、「面倒くさい」×2 みたいな感じになってくる。
二乗どころではなく、もっともっと「掃除」が重たいものになってくるのです。
そして身体はひとつも動かない。
そして今度は、掃除ができない無精な自分を責め始める。
「なんて私って駄目なんだろう」「こんな簡単なことにも取り掛かれないなんて情けない」
そういう言葉も、自分の頭のなかで渦巻いてきますので、ますます気分は沈んできて、とても掃除どころではなくなります。
これは「掃除」の例ですが、これだけではありません。
なんでも頭で考えて、見積もって、連想して、それからとりかかるというクセがあるので、これがいろいろなことに波及していきます。
何もかも、たいへんで面倒くさい。
「これから良いことが起こる」とは、なかなか考えにくい性向がありますので、考えれば考えるほど、これから取り掛かることが面倒になってくるし、憂鬱になってくる。
ものごとによっては、恐怖にさえなってくる。
だからなるべく面倒なことからは手をひいて、家でじっとしているのが一番楽なことになります。
でも、自分を責め続けているわけですから、本当はあまり楽ではないのですね。
では、この「言葉の重し」を取り去ればいいのでしょうか?
それを「良い言葉」に置き換えてみる?
うまく行けばいいですけれどね。
強迫的な人はそれをやることで、またまた頭のなかが重くなってはまっていくことがあります。
とにかく、面倒くさくても、そのまま、這ってでも動いてみる。
別に、自分のイメージするような理想の行動ができなくてもいい。
ささやかな建設的な行動をめざし、とりあえず、いやいやでも身体を動かしてみることです。
そのときに、「少し動いたから気分が良くなったかな?」などと頭で気分チェックをすると、また頭のなかで自分を責める言葉が湧いてきます。
「これぐらいしかできないの?」とか「こんなことして楽になるのだろうか?」とか、重い言葉が湧き始めます。
ですから「這ってでも」の行動を少し続けてみる。
そうすると、とりあえず目の前のことが動くので、それを見る。
頭のなかの言葉は「現実」ではないのです。
「現実」とは、目の前のものごとです。
いやいやでも何かをすれば、それは「現実」を動かしたことです。
それでも頭の中の言葉は、悪魔のように(笑)ささやき続けますが、それはあなたの現実とは何の関係もない。
言葉のなかに住んで、言葉に押しつぶされて生きるより、ほんの少しでも目の前の現実の時間を進めて生きる。
あんまり、大飛躍や夢のような時間を望まずに一歩一歩です。
少しずつでも動いていれば、そのうち、頭のなかの言葉を一瞬忘れるような時間が訪れるはずです。
エクセター大聖堂
別に周りからどうこう言われたわけではない。
(しかし、何か気になることを言われたりするともっと大変になります)
たとえば、単純な例で言えば、掃除をするのが「面倒くさい」。
そうすると、もうこの「面倒くさい」という言葉に押しつぶされてしまう。
頭のなかで「面倒くさい」と何回も繰り返したり、自分が掃除をする情景を思い浮かべたりすると、「面倒くさい」×2 みたいな感じになってくる。
二乗どころではなく、もっともっと「掃除」が重たいものになってくるのです。
そして身体はひとつも動かない。
そして今度は、掃除ができない無精な自分を責め始める。
「なんて私って駄目なんだろう」「こんな簡単なことにも取り掛かれないなんて情けない」
そういう言葉も、自分の頭のなかで渦巻いてきますので、ますます気分は沈んできて、とても掃除どころではなくなります。
これは「掃除」の例ですが、これだけではありません。
なんでも頭で考えて、見積もって、連想して、それからとりかかるというクセがあるので、これがいろいろなことに波及していきます。
何もかも、たいへんで面倒くさい。
「これから良いことが起こる」とは、なかなか考えにくい性向がありますので、考えれば考えるほど、これから取り掛かることが面倒になってくるし、憂鬱になってくる。
ものごとによっては、恐怖にさえなってくる。
だからなるべく面倒なことからは手をひいて、家でじっとしているのが一番楽なことになります。
でも、自分を責め続けているわけですから、本当はあまり楽ではないのですね。
では、この「言葉の重し」を取り去ればいいのでしょうか?
それを「良い言葉」に置き換えてみる?
うまく行けばいいですけれどね。
強迫的な人はそれをやることで、またまた頭のなかが重くなってはまっていくことがあります。
とにかく、面倒くさくても、そのまま、這ってでも動いてみる。
別に、自分のイメージするような理想の行動ができなくてもいい。
ささやかな建設的な行動をめざし、とりあえず、いやいやでも身体を動かしてみることです。
そのときに、「少し動いたから気分が良くなったかな?」などと頭で気分チェックをすると、また頭のなかで自分を責める言葉が湧いてきます。
「これぐらいしかできないの?」とか「こんなことして楽になるのだろうか?」とか、重い言葉が湧き始めます。
ですから「這ってでも」の行動を少し続けてみる。
そうすると、とりあえず目の前のことが動くので、それを見る。
頭のなかの言葉は「現実」ではないのです。
「現実」とは、目の前のものごとです。
いやいやでも何かをすれば、それは「現実」を動かしたことです。
それでも頭の中の言葉は、悪魔のように(笑)ささやき続けますが、それはあなたの現実とは何の関係もない。
言葉のなかに住んで、言葉に押しつぶされて生きるより、ほんの少しでも目の前の現実の時間を進めて生きる。
あんまり、大飛躍や夢のような時間を望まずに一歩一歩です。
少しずつでも動いていれば、そのうち、頭のなかの言葉を一瞬忘れるような時間が訪れるはずです。
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