新しい年
明けましておめでとうございます。
まだ休み気分が残っているので、あまりむずかしいことは書きません。
自分のなかにある、なんでも「有意義」でなければならないという思考は、なるべく追放したいと思っているので。
でも、いつもそうなってしまう。
悪い癖です。
今年は「ヒマ」「ゆとり」を追及したいなどと、できもしないことを思う新年。
でも、ヒマやゆとりがこわいから、ワーカホリックになっているわけですから、むずかしいです。
ところでお正月の雰囲気が薄れているお正月に思いました。
季節の行事って、人間にとってとても大切なことなのだということ。
実はカウンセリングをしていて、いろいろなかたにお会いするのですが、とある小さな宗教(宗派と言ったほうがいい)では、日本の季節の行事にはいっさい参加しない、行わないというところがあるようなのです。
別に宗教差別をする気はないのですが、それって子供の発育に影響がないかしらと思ってしまったことがあります。
子どもの頃は季節を身体で感じるようなところがあります。
(本当は大人になっても感じているのですが、どうも大人は身体の不調として感じることが多いようです)
成長しているプロセスのなかで感じた季節感は、記憶のなかで何か大事な役目を果たしているような気がします。
「五感の発達を支える」という難しい言葉で言ってもいいかもしれません。
季節の行事はその感覚のガイドみたいな役割を果たしている。
「お正月の松飾りと空気の澄んだ冷たさ」とか「ひな祭りの頃の土の匂い」「お彼岸の墓参りのときに見た彼岸花」とか・・・。
そういうものは、決して無駄なものではなく、そんな経験と感覚のなかで子供の心は成長していくような気がします。
大都市以外では、これは自然なことなのかもしれません。
でも東京のようなところでは、なかなか感じられない。
ウォーキングを始めてわかったのですが、東京では土や樹が(特に土が)圧倒的に少ない。
公園があっても、子どもはいない。犬しか遊んでいない。
勉強や与えられたゲームやテレビ以外にも、いろいろな世界を感じながらーーつまり五感を鍛えながら成長してほしいと思うのですが、この頃の子はどうなのでしょう?
季節は商業主義に汚され(あれも季節感の一種かもしれませんが)、人はスマホのとりこになって、狭い世界に生きるようになってしまった。(でもそれが「広い世界」と錯覚している向きもある)
未来が心配。
せめて今年はもっと「ゆとり」の時間を持って、五感を楽しんで生活することができればいいなと思います。
今年もよろしくお願いします。
まだ休み気分が残っているので、あまりむずかしいことは書きません。
自分のなかにある、なんでも「有意義」でなければならないという思考は、なるべく追放したいと思っているので。
でも、いつもそうなってしまう。
悪い癖です。
今年は「ヒマ」「ゆとり」を追及したいなどと、できもしないことを思う新年。
でも、ヒマやゆとりがこわいから、ワーカホリックになっているわけですから、むずかしいです。
ところでお正月の雰囲気が薄れているお正月に思いました。
季節の行事って、人間にとってとても大切なことなのだということ。
実はカウンセリングをしていて、いろいろなかたにお会いするのですが、とある小さな宗教(宗派と言ったほうがいい)では、日本の季節の行事にはいっさい参加しない、行わないというところがあるようなのです。
別に宗教差別をする気はないのですが、それって子供の発育に影響がないかしらと思ってしまったことがあります。
子どもの頃は季節を身体で感じるようなところがあります。
(本当は大人になっても感じているのですが、どうも大人は身体の不調として感じることが多いようです)
成長しているプロセスのなかで感じた季節感は、記憶のなかで何か大事な役目を果たしているような気がします。
「五感の発達を支える」という難しい言葉で言ってもいいかもしれません。
季節の行事はその感覚のガイドみたいな役割を果たしている。
「お正月の松飾りと空気の澄んだ冷たさ」とか「ひな祭りの頃の土の匂い」「お彼岸の墓参りのときに見た彼岸花」とか・・・。
そういうものは、決して無駄なものではなく、そんな経験と感覚のなかで子供の心は成長していくような気がします。
大都市以外では、これは自然なことなのかもしれません。
でも東京のようなところでは、なかなか感じられない。
ウォーキングを始めてわかったのですが、東京では土や樹が(特に土が)圧倒的に少ない。
公園があっても、子どもはいない。犬しか遊んでいない。
勉強や与えられたゲームやテレビ以外にも、いろいろな世界を感じながらーーつまり五感を鍛えながら成長してほしいと思うのですが、この頃の子はどうなのでしょう?
季節は商業主義に汚され(あれも季節感の一種かもしれませんが)、人はスマホのとりこになって、狭い世界に生きるようになってしまった。(でもそれが「広い世界」と錯覚している向きもある)
未来が心配。
せめて今年はもっと「ゆとり」の時間を持って、五感を楽しんで生活することができればいいなと思います。
今年もよろしくお願いします。