相手の身になって考える
「相手の身になって考える」つまり「相手の立場を推し量り、その人のために考える」ということは、結構難しいことですね。
セラピスト、カウンセラーという仕事も、日々その訓練であるわけです。
日常生活のなかでも、相手が善意で言ってくれることだけれど、「それは少しむずかしいなぁ」とか「思いやりがないなぁ」と感じてしまうこともあります。
こういう行き違いは、日常茶飯事かもしれません。
こういうときに「自己主張」が必要になってくるのでしょう。
それでお互い意志の疎通ができれば、一件落着なのですが。
卑近な例ですが、私は胃腸が弱いし小食です。おまけに乳糖不耐症があるし、「食べたら次の日に絶対具合が悪くなるもの」がたくさんあります。
こういう人間が「出されたものは必ず全部食べるのが当然」という「かくあるべし」をもっているかたと出会うと、地獄です。
コース料理に招待されてしまった場合などは、まさに窮地。
いくら「少なくして」と頼んでおいても、最初の二、三品でもうお腹がいっぱい。
残すと、給仕のかたに「?」という顔をされたり、他の人に「美味しくなかった?」と聞かれたり・・・。
若い時には、相手に「残さず食べなきゃ」と説教されたこともあります。
こういう胃腸が丈夫なかたには、胃腸が弱い人の気持ちは到底わからない。
一般的に、体力がある人は健康でない人のことがなかなか理解できないようです。
体力が尽きてしまうと、「根性がない」と思われる・・。
カウンセリングのなかでお話を伺っていても、そういうことで辛い思いをなさっているかたがたくさんいらっしゃるようです。
毎日必死で働いて、土日くらいはゆっくり寝たいと思っているのに、休みの日でも家族が「早く起きなさい。何をグダグダしているの」と、寝かせてくれない。
外で働くのがどれだけたいへんで、どれだけ疲れるか、察することができない家族なのですね。
ひどいケースですが、「人間は一日○時間眠れたら大丈夫なのだ」と言って、自然な欲求はとりあってもらえないなどということもあるようです。
給食を少しでも残すと、食べ終わるまで席を離れられなかったり。(今はそういうことは少なくなっているようですが、昔はよくあったことです)
部活でどんなに体力がない子も、一律にハードトレーニングをさせられたり。
飲み会で先輩から「飲め、飲め」と強要されたり。
一時代前の日本人は「精神論」がすごく好きでした。
精神力さえあれば、たいていのことは乗り越えられるものだーーという考え方ですね。
非科学的です。
精神論というのは「かくあるべし」です。
人それぞれの個性とか、特性とかをまったく無視して、「こうでなくてはならない」と決めつけてそれを実行しようとする。
それを他人にも押し付ける。
「かくあるべし」を他人に押し付けているときには、その人は「相手はまったく違うことを感じているかもしれない」「相手の身になって考えるとどうだろう」ということを、失念しているに相違ありません。
学校や職場などでは、なかなかNOというのは難しいことです。
でも、そんな「かくあるべし」に出会ってしまったら、おずおずでも「自分はそうできないのだけれど」と言ってみることも大事かもしれません。
それはもしかしたら相手の人のためになるかもしれない。
「自分と他人は感じ方が違う。自分にとって当たり前のことが、他人の当たり前ではない」ということ。
相手がそういうことを学習できるチャンスになる可能性もあります。
でも、一番困るのは、自分が自分に「かくあるべし」を押し付けてしまうことですね。
自分の本当の体力・能力を認めると、「かくあるべし」がはずれて、少し自分に優しくなれるかもしれません。