対人恐怖について その2
引き続き、対人恐怖について。
神経症を森田式に分類すると、三種類に分かれます。これは現在世界で使われている診断基準DSM5やICD10とは違う分類です。
つまり、不安神経症、普通神経症(身体のことが気になる神経症)、強迫神経症です。
対人恐怖は強迫神経症のなかに入りますが、対人恐怖のかたと、何かひとつのことにとらわれる強迫タイプのかたとは、ちょっと違った感じがします。
(もちろん、すべての症状の根に「強迫性」というものがありますので、いろいろな症状を兼ね備えているかたもいます。)
どこが違うかというと、それは多分、他の症状のかたは問題が対人的なことではないので、社会的な部分、社交的な部分の経験が豊富ということころでしょうか。
その経験の質はまた別問題ですが、とにかく対人恐怖のかたは対人関係に恐怖を持っているわけですから、やはり社会的なことから逃げていて経験が少ないと言えると思います。
そして、これは全部のかたとは言いませんが、対人恐怖のかたは自立していないことが多い。つまり社会との接点が少ない分、親に依存していることが多いのです。その依存のしかたも、ただの依存から、反発するという形での依存といろいろな形をとります。
ここは面白いところなのですが、AC的な人は大抵、社会的な関係性は良好でも、親密な関係で問題が出る(つまり恋愛や結婚がうまくいかない)のですが、対人恐怖の人は、社会的な関係は苦手でも、結婚すると意外にうまくいくかたが多いようです。
さて、対人恐怖のかたに共通の面白い傾向があります。
それは「おとなしい」と評されると、激しく反応することです。
私は別に自分のことを「おとなしい」と言われても「そうなのね」と思うくらいですが、対人のかたは「絶対にいや」なのだそうです。
つまり、社会的な自分のあり方の理想像が、とても特異なのですね。
それも不思議なほど皆が同じ理想像をもっているのです。
活発で、明るくて、話がうまく、皆の中心的存在で、冗談がうまく、リーダーシップがとれる。そんな感じでしょうか。
大抵の場合、対人恐怖的なときとは全く正反対の理想像です。
どうしてそういう人になりたいのでしょうか?
そういう人でなければ、他人の尊敬や愛情は得られないと思っているのでしょうか?
普通、人が信頼を置くのは、物静かで、人の話を聞き、それでいて肝心なときには自分の意見をしっかり言える人なのではないでしょうか。
対人恐怖的理想像を追いかけて、話し方教室などに通い、たまたま自分が理想に近づけたと思ってしまうと悲惨なことになります。
話すのは上手かもしれませんが、人の話を聞かず、うるさくて、周りをよく見ない。
それでいて負け嫌いなので、ちょっとでもプライドを傷つけられると、相手に逆襲する。
そんな人になりかねません。
対人恐怖者が理想的とする人間像になれたとしても、それでなおかつ人に好かれるには、経験の蓄積がものを言うのです。
対人恐怖の人は、経験が少ないぶん、対人関係の基礎から学んでいく必要があるかもしれない。
けれどその努力をすれば、なんとなく自分流に対人関係を学んできた人よりも、ずっと洗練された対人関係を持てるかもしれません。
そのために、お勧めしたいのが、故・長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」という本のなかの「対人関係の根本問題」という章です。
もちろん長谷川先生は、生活の発見会の元会長、創始者といっていいかたです。
この本は、実はもう絶版です。
この部分だけでもコピーして対人恐怖のかたにお渡ししたいくらいですが、なにせこの章は長くて、コピーが容易ではありません。著作権の問題もありますし。
人間関係で本当に基本的な「挨拶をする」「人の話を聞く」「相手を尊重する」などのこと、当たり前と思われるかもしれませんが、意外とできていないことが多いかもしれませんね。
そしてもっとも基本的なことは、対人関係にばかり気をとられすぎず、自分が何をするべきか、何をしたいのかを把握していくことだと思います。

神経症を森田式に分類すると、三種類に分かれます。これは現在世界で使われている診断基準DSM5やICD10とは違う分類です。
つまり、不安神経症、普通神経症(身体のことが気になる神経症)、強迫神経症です。
対人恐怖は強迫神経症のなかに入りますが、対人恐怖のかたと、何かひとつのことにとらわれる強迫タイプのかたとは、ちょっと違った感じがします。
(もちろん、すべての症状の根に「強迫性」というものがありますので、いろいろな症状を兼ね備えているかたもいます。)
どこが違うかというと、それは多分、他の症状のかたは問題が対人的なことではないので、社会的な部分、社交的な部分の経験が豊富ということころでしょうか。
その経験の質はまた別問題ですが、とにかく対人恐怖のかたは対人関係に恐怖を持っているわけですから、やはり社会的なことから逃げていて経験が少ないと言えると思います。
そして、これは全部のかたとは言いませんが、対人恐怖のかたは自立していないことが多い。つまり社会との接点が少ない分、親に依存していることが多いのです。その依存のしかたも、ただの依存から、反発するという形での依存といろいろな形をとります。
ここは面白いところなのですが、AC的な人は大抵、社会的な関係性は良好でも、親密な関係で問題が出る(つまり恋愛や結婚がうまくいかない)のですが、対人恐怖の人は、社会的な関係は苦手でも、結婚すると意外にうまくいくかたが多いようです。
さて、対人恐怖のかたに共通の面白い傾向があります。
それは「おとなしい」と評されると、激しく反応することです。
私は別に自分のことを「おとなしい」と言われても「そうなのね」と思うくらいですが、対人のかたは「絶対にいや」なのだそうです。
つまり、社会的な自分のあり方の理想像が、とても特異なのですね。
それも不思議なほど皆が同じ理想像をもっているのです。
活発で、明るくて、話がうまく、皆の中心的存在で、冗談がうまく、リーダーシップがとれる。そんな感じでしょうか。
大抵の場合、対人恐怖的なときとは全く正反対の理想像です。
どうしてそういう人になりたいのでしょうか?
そういう人でなければ、他人の尊敬や愛情は得られないと思っているのでしょうか?
普通、人が信頼を置くのは、物静かで、人の話を聞き、それでいて肝心なときには自分の意見をしっかり言える人なのではないでしょうか。
対人恐怖的理想像を追いかけて、話し方教室などに通い、たまたま自分が理想に近づけたと思ってしまうと悲惨なことになります。
話すのは上手かもしれませんが、人の話を聞かず、うるさくて、周りをよく見ない。
それでいて負け嫌いなので、ちょっとでもプライドを傷つけられると、相手に逆襲する。
そんな人になりかねません。
対人恐怖者が理想的とする人間像になれたとしても、それでなおかつ人に好かれるには、経験の蓄積がものを言うのです。
対人恐怖の人は、経験が少ないぶん、対人関係の基礎から学んでいく必要があるかもしれない。
けれどその努力をすれば、なんとなく自分流に対人関係を学んできた人よりも、ずっと洗練された対人関係を持てるかもしれません。
そのために、お勧めしたいのが、故・長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」という本のなかの「対人関係の根本問題」という章です。
もちろん長谷川先生は、生活の発見会の元会長、創始者といっていいかたです。
この本は、実はもう絶版です。
この部分だけでもコピーして対人恐怖のかたにお渡ししたいくらいですが、なにせこの章は長くて、コピーが容易ではありません。著作権の問題もありますし。
人間関係で本当に基本的な「挨拶をする」「人の話を聞く」「相手を尊重する」などのこと、当たり前と思われるかもしれませんが、意外とできていないことが多いかもしれませんね。
そしてもっとも基本的なことは、対人関係にばかり気をとられすぎず、自分が何をするべきか、何をしたいのかを把握していくことだと思います。