歩く「映画」
もちろん映画が歩くわけではありません。
歩くことをテーマにした映画を、このところ続けて見たので。
今はウォーキングに最適の季節なのですが、なかなか出かけるチャンスがなく、ジムのトレッドミルで我慢しています。
せめて、歩くことに関する映画を見ようと、二本見てみました。
ひとつは「星の旅人たち」(原題・The Way)で、歩く場所はスペインの巡礼の道、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう800キロの道です。
もうひとつは「わたしに会うまでの1600キロ」(原題・Wild)。舞台はアメリカ西海岸をメキシコからカナダまで縦断するパシフィック・クレスト・トレイルです。
どちらも淡々と道を歩く映画なので、ストーリー性があったり劇的だったりするわけではありません。
二つの映画に共通するのは、自分の大切な人をなくして、それをきっかけに歩き始めるということです。
「星の旅人たち」では、眼科医をしている男性が、ある日息子の訃報を受け取る。
世界を放浪していた息子は、スペイン巡礼を始めようとした矢先、ピレネー山脈で遭難してしまったという。
息子の遺体を引き取りに行った彼は、息子のバックパックを背負い、遺灰を持ち、自ら巡礼の旅に出る・・というストーリー。
「わたしに出会うまでの1600キロ」は、母をなくした主人公が、しばし自堕落な生活をしていたが、恋人にも去られたのをきっかけに、女性一人でパシフィック・クレスト・トレイルに挑戦する、というストーリーです。
「星の旅人たち」の主人公は、息子の遺灰をまきながら道をたどりますが、徐々に道で出会った人々と心を通わせるようになり、そこに亡き息子の面影を見て、気持ちは癒され、心が開かれていくのです。
「わたしに出会う~」のほうの旅は、もっと過酷です。距離は2倍の1600キロ。
巡礼のように宿があるわけではなく、女性には重いテント一式を背負い、野宿をし、危険な目にあいながらとうとう目的を達成します。
彼女は歩きながら、母の記憶をたどります。
母はDVの夫から二人の子を連れて逃げ、貧しい暮らしをしながらも、向上心と明るさを失わない人でしたが、若くして亡くなります。
彼女は、道中に誰かと出会うということはなく、ひたすら自然のなかで自然と対峙します。
道を歩き切ったとき、彼女を癒したのは、独力で歩きとおした自分の「力」だったのかもしれません。
巡礼の道や、自然のなかの道をたどるルートが、どの国にもあるということは、きっと道を歩く、歩きとおすということに何らかの意味を見出す人が多いからでしょう。
確かに「歩き切った」ときには、自分の力、後押ししてくれた自然の力を身体ごと受け止めるような、かけがえのない感覚を覚えます。
歩いているときには、風景ともゆっくりと向き合えて、「自然」を身近に感じることもできます(時にはこわいこともあるでしょうが)。
うつの時には、疲れない程度に「歩く」ことが推奨されたりもします。
悩んでいるときには、自然の中で歩いてみると、少し気持ちが変わるかもしれません。
平凡な行為でありながら、「歩く」ことのなかには、何か人を変える力があるのでしょうね。
紅葉の美しい季節、できるだけ外に出てみようかと思います。
歩くことをテーマにした映画を、このところ続けて見たので。
今はウォーキングに最適の季節なのですが、なかなか出かけるチャンスがなく、ジムのトレッドミルで我慢しています。
せめて、歩くことに関する映画を見ようと、二本見てみました。
ひとつは「星の旅人たち」(原題・The Way)で、歩く場所はスペインの巡礼の道、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう800キロの道です。
もうひとつは「わたしに会うまでの1600キロ」(原題・Wild)。舞台はアメリカ西海岸をメキシコからカナダまで縦断するパシフィック・クレスト・トレイルです。
どちらも淡々と道を歩く映画なので、ストーリー性があったり劇的だったりするわけではありません。
二つの映画に共通するのは、自分の大切な人をなくして、それをきっかけに歩き始めるということです。
「星の旅人たち」では、眼科医をしている男性が、ある日息子の訃報を受け取る。
世界を放浪していた息子は、スペイン巡礼を始めようとした矢先、ピレネー山脈で遭難してしまったという。
息子の遺体を引き取りに行った彼は、息子のバックパックを背負い、遺灰を持ち、自ら巡礼の旅に出る・・というストーリー。
「わたしに出会うまでの1600キロ」は、母をなくした主人公が、しばし自堕落な生活をしていたが、恋人にも去られたのをきっかけに、女性一人でパシフィック・クレスト・トレイルに挑戦する、というストーリーです。
「星の旅人たち」の主人公は、息子の遺灰をまきながら道をたどりますが、徐々に道で出会った人々と心を通わせるようになり、そこに亡き息子の面影を見て、気持ちは癒され、心が開かれていくのです。
「わたしに出会う~」のほうの旅は、もっと過酷です。距離は2倍の1600キロ。
巡礼のように宿があるわけではなく、女性には重いテント一式を背負い、野宿をし、危険な目にあいながらとうとう目的を達成します。
彼女は歩きながら、母の記憶をたどります。
母はDVの夫から二人の子を連れて逃げ、貧しい暮らしをしながらも、向上心と明るさを失わない人でしたが、若くして亡くなります。
彼女は、道中に誰かと出会うということはなく、ひたすら自然のなかで自然と対峙します。
道を歩き切ったとき、彼女を癒したのは、独力で歩きとおした自分の「力」だったのかもしれません。
巡礼の道や、自然のなかの道をたどるルートが、どの国にもあるということは、きっと道を歩く、歩きとおすということに何らかの意味を見出す人が多いからでしょう。
確かに「歩き切った」ときには、自分の力、後押ししてくれた自然の力を身体ごと受け止めるような、かけがえのない感覚を覚えます。
歩いているときには、風景ともゆっくりと向き合えて、「自然」を身近に感じることもできます(時にはこわいこともあるでしょうが)。
うつの時には、疲れない程度に「歩く」ことが推奨されたりもします。
悩んでいるときには、自然の中で歩いてみると、少し気持ちが変わるかもしれません。
平凡な行為でありながら、「歩く」ことのなかには、何か人を変える力があるのでしょうね。
紅葉の美しい季節、できるだけ外に出てみようかと思います。
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