森田療法における欲望について その1
今回は少し長い引用をいたします。森田正馬全集5巻284頁からです。
ここに書いてあるのと、同じようなことを言われる方が続いたので。
「形外会の自己紹介のときでも、言いたいことの十分の一も言えない。それならそれで満足し安心ができるかというと、そうはいかない。残念でならぬ。ただ自分が弱いからしかたがないまでのことである。このままあきらめることはできない。一晩二晩眠れぬこともある。尻尾を巻くのは、すなわち恐怖である。残念で、あきらめられないというのが、すなわち欲望である。この恐怖と欲望の間の葛藤が大きくて、その苦痛を押しきっていくのが、立派な人であり、偉い人である。その恐怖を否定し、あるいは欲望を捨てようとか、工夫するのが似て非なる修道者であり、強迫観念であるのである。」
よく聞くお話しなのですが、友人との雑談ではいつも聞き役で、話したいことがあるのにまったく発言できない、あるいはディスカッションの時間に、皆が立派なことを臨機応変に発言するのに自分はまったく発言できない。
そんな悩みをお持ちのかたがいます。
それでいい、と思う人なら問題はありません。
つまり発言とか、皆の前で立派なことを言うことに欲求がない人ならばそれでいい。
(欲求が向かうところは、その人によって異なります)
ただその後に「悔しい、残念」という感情が残るなら、それはそこに欲望があるということです。
この感情は、イヤなものかもしれませんが、純な心。大切です。
欲望のありかを示してくれているからです。
恐怖やイヤな感情はありながら、でもどうにかこの「欲望」をかなえようと工夫していくことが、自分を命の流れに乗せることになります。
さて、最後のところで「恐怖を否定し」「欲望を捨てようとする」という言葉が出てきます。今日書きたいのはこのあたり。
つまり、時々自分で自分の「欲望」を否定することで、強迫観念に陥っている人がいるような気がするのです。
つまり「欲望」に対して「かくあるべし」で押しつぶしているのです。
たとえば、「自己顕示欲」などという名前を付けて、「自分にはそんな醜いものはない」と思う。
「名誉欲」や「金銭欲」はあさましいものと思って否定する。
自分には「死の恐怖」はないと公言したりする。
武士道みたいな価値観から来ているのかもしれませんね。
そういう人は、やる気満々の他の人を批判したりするわけです。
「あぁぁ、あんなにがんばっちゃってみっともないな」とか。
ちなみに言えば、本当にそういう欲求が少ない人は人を批判したりしないでしょうね。
気がつかないでしょうから。
欲望を認めることは、恥ずかしいことではない。
欲望があっても、別に公表する必要はないですし、心のなかは何を考えようと自由です。
欲望を否定すると、まるで自分が汚いもののように思えてきます。
むしろ、欲望を自分から隠しているほうが、無意識の嫉妬に変化して悪さをしたりするでしょう。
もうひとつ、堂々と欲望を認めてがむしゃらに何かを獲得しようとすることが森田療法だというわけでもありません。
「こんなにガツガツしてちょっと恥ずかしい」というくらいがちょうどいいのです。
つまり「みっともないかな?」というのも純な心で、それがあるから調和がとれるのです。
「私は森田療法やっているから、自分を認められるようになりました。やりたいことに邁進します!」といって、ただただ前進というのもちょっと違う気がします。
微妙なことなのですが、そのプロセスのなかで、「これはやりすぎたかな? 言い過ぎたかな? 恥ずかしかったかな? 場にそぐわなかったかな?」という気持ちが湧いてきたら、それも大事にする。
そういう繊細さは大事なシグナルで、私たちを調和ある行動に導いてくれるのです。
森田療法は、性格のなかにある 感じやすさ、繊細さや小心さを否定しない。
そのまま活かしながら、よりよい現実生活へと導いていくものです。
森田療法をもっと深く学びたいかた、歓迎します お茶の水セラピールーム
ここに書いてあるのと、同じようなことを言われる方が続いたので。
「形外会の自己紹介のときでも、言いたいことの十分の一も言えない。それならそれで満足し安心ができるかというと、そうはいかない。残念でならぬ。ただ自分が弱いからしかたがないまでのことである。このままあきらめることはできない。一晩二晩眠れぬこともある。尻尾を巻くのは、すなわち恐怖である。残念で、あきらめられないというのが、すなわち欲望である。この恐怖と欲望の間の葛藤が大きくて、その苦痛を押しきっていくのが、立派な人であり、偉い人である。その恐怖を否定し、あるいは欲望を捨てようとか、工夫するのが似て非なる修道者であり、強迫観念であるのである。」
よく聞くお話しなのですが、友人との雑談ではいつも聞き役で、話したいことがあるのにまったく発言できない、あるいはディスカッションの時間に、皆が立派なことを臨機応変に発言するのに自分はまったく発言できない。
そんな悩みをお持ちのかたがいます。
それでいい、と思う人なら問題はありません。
つまり発言とか、皆の前で立派なことを言うことに欲求がない人ならばそれでいい。
(欲求が向かうところは、その人によって異なります)
ただその後に「悔しい、残念」という感情が残るなら、それはそこに欲望があるということです。
この感情は、イヤなものかもしれませんが、純な心。大切です。
欲望のありかを示してくれているからです。
恐怖やイヤな感情はありながら、でもどうにかこの「欲望」をかなえようと工夫していくことが、自分を命の流れに乗せることになります。
さて、最後のところで「恐怖を否定し」「欲望を捨てようとする」という言葉が出てきます。今日書きたいのはこのあたり。
つまり、時々自分で自分の「欲望」を否定することで、強迫観念に陥っている人がいるような気がするのです。
つまり「欲望」に対して「かくあるべし」で押しつぶしているのです。
たとえば、「自己顕示欲」などという名前を付けて、「自分にはそんな醜いものはない」と思う。
「名誉欲」や「金銭欲」はあさましいものと思って否定する。
自分には「死の恐怖」はないと公言したりする。
武士道みたいな価値観から来ているのかもしれませんね。
そういう人は、やる気満々の他の人を批判したりするわけです。
「あぁぁ、あんなにがんばっちゃってみっともないな」とか。
ちなみに言えば、本当にそういう欲求が少ない人は人を批判したりしないでしょうね。
気がつかないでしょうから。
欲望を認めることは、恥ずかしいことではない。
欲望があっても、別に公表する必要はないですし、心のなかは何を考えようと自由です。
欲望を否定すると、まるで自分が汚いもののように思えてきます。
むしろ、欲望を自分から隠しているほうが、無意識の嫉妬に変化して悪さをしたりするでしょう。
もうひとつ、堂々と欲望を認めてがむしゃらに何かを獲得しようとすることが森田療法だというわけでもありません。
「こんなにガツガツしてちょっと恥ずかしい」というくらいがちょうどいいのです。
つまり「みっともないかな?」というのも純な心で、それがあるから調和がとれるのです。
「私は森田療法やっているから、自分を認められるようになりました。やりたいことに邁進します!」といって、ただただ前進というのもちょっと違う気がします。
微妙なことなのですが、そのプロセスのなかで、「これはやりすぎたかな? 言い過ぎたかな? 恥ずかしかったかな? 場にそぐわなかったかな?」という気持ちが湧いてきたら、それも大事にする。
そういう繊細さは大事なシグナルで、私たちを調和ある行動に導いてくれるのです。
森田療法は、性格のなかにある 感じやすさ、繊細さや小心さを否定しない。
そのまま活かしながら、よりよい現実生活へと導いていくものです。
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