「恐怖」について
まだまだコロナ禍のこの頃。
地域によって緊迫感が違うと思いますが、東京の私の住んでいる地区では、「通り沿いのお弁当屋さんに陽性の店員さんが出てしばらく休業」「その向こうの病院では看護師さんが一人陽性になった」など、コロナはとても身近なものです。
なので患者さんの少ない地方のように、差別されたり、いやがらせされたりということは聞きません。
人数が多すぎますので、明日は我が身です。
先日スーパーに行ったら、防毒マスクをしている人がいました。なんの冗談かと思いました。
その向こうには口を大きくあけてガムを噛みながらレジに並んでいる人もいる。
人によって危機感がまったく違うようです。
年寄りや持病のある人にとっては、コロナにかかることは「恐怖」です。
不運な場合、死ぬこともあるのですから。
ところで神経症のかたにお尋ねすると、どうも「コロナより症状のほうが怖かった」というかたが圧倒的に多い。
これも不思議です。
だって症状では死なないけれど、コロナは死ぬ可能性がある。
なぜ症状のほうが怖いのでしょう。
確かに、たいていの神経症の症状の核心にあるのは、ものすごい「恐怖」です。
たとえ理性で、(体臭恐怖の場合)「自分の体臭がそんなに遠くの人まで届くわけがない」とわかっていても、理解しただけでは恐怖は去らない。
大抵の人は自分の思い込みの理不尽さに「頭では」気づいているのです。
けれど、どうしてもこの「恐怖」に動かされて、逃げたりはからったりしてしまう。
これは、自分の想像上の「悪い結果」についての恐怖です。
それが「精神交互作用」によって増幅されています。
核心が恐怖ですから、考え方にアプローチする認知行動療法などでは、少し遠回りになります。
殆どの神経症のかたは、自分の認知が少し歪んでいるとか、怖がっていることが起こるのは確率的に非常に少ないということは薄々気づいているのです。
しかし襲ってくる恐怖の前に、思考が無力になってしまう。
森田療法が「感情に対する療法」と言われるのはそこのところです。
ではなぜ本物の死の恐怖(コロナ)よりも症状の恐怖のほうが大きいのでしょう。
コロナは現実に起こっていることへの恐怖、症状は架空の恐怖です。
多分、症状にまでなった恐怖は、時間をかけて練り上げられたものだからこそ、大きいのかもしれません。
けれど、恐怖には現実も架空もないのかもしれない。
なぜならコロナの恐怖にしても、これは「かかるかもしれない」恐怖なのであって、実はまだ起こっていないことについての恐怖です。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の「幽霊」です。
「心配事」や、症状真っ最中の恐怖は、すべて森田療法で言う「予期恐怖」なのかもしれません。
「予期恐怖」ではない本物の「恐怖」というものがある。
それは、本当に危機に直面してしまったときの「恐怖」でしょう。
本当に病気にかかってしまった!
危機一髪の目にあった!
逃げ続けていた状況に直面せざるを得ない!
反応は人それぞれですが、その時の恐怖は、「予期恐怖」とは全く違うものであるはず。
この恐怖こそが「予期恐怖」ではない現実の恐怖。
現実の恐怖の前では、私たちは否応なく変化せざるを得ない。
このあたりが森田療法のキモなのかもしれないと、このごろ考えてみたりします。
地域によって緊迫感が違うと思いますが、東京の私の住んでいる地区では、「通り沿いのお弁当屋さんに陽性の店員さんが出てしばらく休業」「その向こうの病院では看護師さんが一人陽性になった」など、コロナはとても身近なものです。
なので患者さんの少ない地方のように、差別されたり、いやがらせされたりということは聞きません。
人数が多すぎますので、明日は我が身です。
先日スーパーに行ったら、防毒マスクをしている人がいました。なんの冗談かと思いました。
その向こうには口を大きくあけてガムを噛みながらレジに並んでいる人もいる。
人によって危機感がまったく違うようです。
年寄りや持病のある人にとっては、コロナにかかることは「恐怖」です。
不運な場合、死ぬこともあるのですから。
ところで神経症のかたにお尋ねすると、どうも「コロナより症状のほうが怖かった」というかたが圧倒的に多い。
これも不思議です。
だって症状では死なないけれど、コロナは死ぬ可能性がある。
なぜ症状のほうが怖いのでしょう。
確かに、たいていの神経症の症状の核心にあるのは、ものすごい「恐怖」です。
たとえ理性で、(体臭恐怖の場合)「自分の体臭がそんなに遠くの人まで届くわけがない」とわかっていても、理解しただけでは恐怖は去らない。
大抵の人は自分の思い込みの理不尽さに「頭では」気づいているのです。
けれど、どうしてもこの「恐怖」に動かされて、逃げたりはからったりしてしまう。
これは、自分の想像上の「悪い結果」についての恐怖です。
それが「精神交互作用」によって増幅されています。
核心が恐怖ですから、考え方にアプローチする認知行動療法などでは、少し遠回りになります。
殆どの神経症のかたは、自分の認知が少し歪んでいるとか、怖がっていることが起こるのは確率的に非常に少ないということは薄々気づいているのです。
しかし襲ってくる恐怖の前に、思考が無力になってしまう。
森田療法が「感情に対する療法」と言われるのはそこのところです。
ではなぜ本物の死の恐怖(コロナ)よりも症状の恐怖のほうが大きいのでしょう。
コロナは現実に起こっていることへの恐怖、症状は架空の恐怖です。
多分、症状にまでなった恐怖は、時間をかけて練り上げられたものだからこそ、大きいのかもしれません。
けれど、恐怖には現実も架空もないのかもしれない。
なぜならコロナの恐怖にしても、これは「かかるかもしれない」恐怖なのであって、実はまだ起こっていないことについての恐怖です。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」の「幽霊」です。
「心配事」や、症状真っ最中の恐怖は、すべて森田療法で言う「予期恐怖」なのかもしれません。
「予期恐怖」ではない本物の「恐怖」というものがある。
それは、本当に危機に直面してしまったときの「恐怖」でしょう。
本当に病気にかかってしまった!
危機一髪の目にあった!
逃げ続けていた状況に直面せざるを得ない!
反応は人それぞれですが、その時の恐怖は、「予期恐怖」とは全く違うものであるはず。
この恐怖こそが「予期恐怖」ではない現実の恐怖。
現実の恐怖の前では、私たちは否応なく変化せざるを得ない。
このあたりが森田療法のキモなのかもしれないと、このごろ考えてみたりします。
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