欲望と欲求
ずっと昔のことです。
生活の発見会を興した長谷川洋三先生の言葉を伝え聞きました。
森田療法でいう「欲望」は「欲求」という日本語よりも、もっと生々しい「欲望」なのだと、おっしゃったそうです。
私などもそうですが、現代では「欲望」というと、少し薄汚さが伴うような気がして、つい「欲求」という言葉を使ってしまいます。
欲求というと、いくらかマイルドで理性的な感じがします。
この頃になって、長谷川先生がなぜ「欲望」という言葉を強調なさったか理解できる気がしてきました。
私たちは時として自分の本心をごまかし、本当の感情を無視します。
社会生活を営んでいくうえで、それは当然のことかもしれません。
しかし言葉や態度に出さなくても「本心」や「本当の感情(純なこころ)」は自分のなかにあるはず。
それはあっていいし、人に言う必要もないのですが、その存在さえも自分で無視してしまうと、いろいろな心のトラブルが起きてきます。
感情についてのことはいつも書いているので、今回は「欲望」のことについて。
自分のなかの根源的な(だからこそドロドロしたものと感じられる)欲望をなかったことにして、きれいな「欲求」にまとめてしまい、それを自分で信じ込んでしまう。
しかし本心をごまかしているのですから、そこから自己洞察が進まないことになる。
努力しても不全感が残るということにもなりがちなのです。
例をあげれば、本当の欲望は「偉くなりたい、人の上に立ちたい」という場合、そんな欲望は恥ずかしいと思って自分をごまかし、「私は人の役に立ちたいのだ」と思い、それを自分も信じ込む。
ところが仕事の現場で、確かに人の役に立っているのに、いつも下働きのような気がして不全感を感じる。
そんな不全感は、本当の欲望に気付くサインなのです。
本当に「人の役に立ちたい」のなら、そこに充足感があるはず。
しかし欲望も変化しますので、自分がしている仕事にだんだん充足感を覚え、生きがいを感じるというのもあり得ることです。
それならそれでいいのです。
そしてまた「偉くなりたい」という欲望のままに努力して、地位役職を得て、その時に「こんなはずではなかった」と思うこともある。
それでもいいのです。
ただ、自分の本心を無視し、今現在の自分が欲しているものを取り違えると、なぜだかエネルギーが湧いてこないものなのです。
逆に言えば、本当にやりたいことをやっているとき、それがどんなに人から見てつまらないことであろうと、私たちは生き生きとするのです。
そんなとき、私たちは「自分はこれがやりたかったんだ」と身体で実感することになります。
経験から、欲望が発見できるのかもしれません。
けれどとりあえず、自分の奥底にある「欲望」から目をそらさないこと。
そこへ向かう実践と努力のエネルギーが、私たちを「悩み」から切り離し、その経験のなかから、私たちは学び、変化していくのです。
難しい言い方かもしれませんが、欲望の達成が森田療法の目指すところではなく、そこに向かうことによって自分のエネルギーを賦活するのが森田療法なのです。
生活の発見会を興した長谷川洋三先生の言葉を伝え聞きました。
森田療法でいう「欲望」は「欲求」という日本語よりも、もっと生々しい「欲望」なのだと、おっしゃったそうです。
私などもそうですが、現代では「欲望」というと、少し薄汚さが伴うような気がして、つい「欲求」という言葉を使ってしまいます。
欲求というと、いくらかマイルドで理性的な感じがします。
この頃になって、長谷川先生がなぜ「欲望」という言葉を強調なさったか理解できる気がしてきました。
私たちは時として自分の本心をごまかし、本当の感情を無視します。
社会生活を営んでいくうえで、それは当然のことかもしれません。
しかし言葉や態度に出さなくても「本心」や「本当の感情(純なこころ)」は自分のなかにあるはず。
それはあっていいし、人に言う必要もないのですが、その存在さえも自分で無視してしまうと、いろいろな心のトラブルが起きてきます。
感情についてのことはいつも書いているので、今回は「欲望」のことについて。
自分のなかの根源的な(だからこそドロドロしたものと感じられる)欲望をなかったことにして、きれいな「欲求」にまとめてしまい、それを自分で信じ込んでしまう。
しかし本心をごまかしているのですから、そこから自己洞察が進まないことになる。
努力しても不全感が残るということにもなりがちなのです。
例をあげれば、本当の欲望は「偉くなりたい、人の上に立ちたい」という場合、そんな欲望は恥ずかしいと思って自分をごまかし、「私は人の役に立ちたいのだ」と思い、それを自分も信じ込む。
ところが仕事の現場で、確かに人の役に立っているのに、いつも下働きのような気がして不全感を感じる。
そんな不全感は、本当の欲望に気付くサインなのです。
本当に「人の役に立ちたい」のなら、そこに充足感があるはず。
しかし欲望も変化しますので、自分がしている仕事にだんだん充足感を覚え、生きがいを感じるというのもあり得ることです。
それならそれでいいのです。
そしてまた「偉くなりたい」という欲望のままに努力して、地位役職を得て、その時に「こんなはずではなかった」と思うこともある。
それでもいいのです。
ただ、自分の本心を無視し、今現在の自分が欲しているものを取り違えると、なぜだかエネルギーが湧いてこないものなのです。
逆に言えば、本当にやりたいことをやっているとき、それがどんなに人から見てつまらないことであろうと、私たちは生き生きとするのです。
そんなとき、私たちは「自分はこれがやりたかったんだ」と身体で実感することになります。
経験から、欲望が発見できるのかもしれません。
けれどとりあえず、自分の奥底にある「欲望」から目をそらさないこと。
そこへ向かう実践と努力のエネルギーが、私たちを「悩み」から切り離し、その経験のなかから、私たちは学び、変化していくのです。
難しい言い方かもしれませんが、欲望の達成が森田療法の目指すところではなく、そこに向かうことによって自分のエネルギーを賦活するのが森田療法なのです。
T.H氏撮影
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