正しく恐れる?
コロナに関して「正しく恐れる」という標語が出回っているようです。
正しく恐れる?
もちろん意味はわかりますよ。
コロナに関してきちんと正確な情報を持ち、怖がり過ぎない、怖がらな過ぎない。
多分そういう意味合いでしょう。
別にこの標語にクレームつけるわけではありません。
(いや、もうつける気満々でしょう、と言われそう)
しかし国に自分の感情まで規定されたくはないと思ってしまいます。
「純なこころ」という概念を確認するために格好の材料という気がして、あえて例にあげさせてもらいます。
感情に「正しさ」なんてあるのでしょうか?
「ここまで怖いのは異常だ」などと言って、自分の感情に価値判断をし、感情を抑えつけようとするのが、悩みの始まり。
「ちょっと怖がりすぎじゃない?」
「もう少しコロナに気をつかって怖がったほうがいいんじゃない?」
余計なお世話です。
怖いものは怖い。
怖くないものは怖くない。
これが「純なこころ」。
感情は個人の自由な領域です。
正しいも正しくないもない。
そのままでいいのです。
こんなふうに感情を価値判断するから、「あんなに怖がって臆病だ」「コロナがこわくないと無視するなんて非常識だ」とか批判する心が生まれてくるのです。
世間の価値判断に自分の感情を合わせようとする必要はありません。
というか、合わせることは本来できないはずです。
行動に関してはまた別の話です。
自分の感情は絶対ですが、理性と相談しながら行動を選択することはできます。
しかしながら、理性だけで突っ走るのも考え物です。
感情や欲求を無視して全部理性だけで判断していくと、必ずやどこかに破綻が生じます。
強引に前に進んで危険な目にあったり、健康を損ねたり・・・。
以上、述べたように、社会に感情を規定されるということは、珍しいことではありません。
各々の文化圏で、各々の価値観があり、同じようなことが起こっているのでしょう。
「臆病は悪だ、大胆さは貴重だ」というような・・・。
日本の武士道精神などもそういうところがあるのかもしれません。
根性論にも通じますね。
感情も欲望も身体も含めた、人間の自然性。
自分のなかの自然性を尊重し、そのまま認めること。
「純なこころ」を大切にすること。
実はこれこそが、「自己肯定感」の土台になるものなのです。
正しく恐れる?
もちろん意味はわかりますよ。
コロナに関してきちんと正確な情報を持ち、怖がり過ぎない、怖がらな過ぎない。
多分そういう意味合いでしょう。
別にこの標語にクレームつけるわけではありません。
(いや、もうつける気満々でしょう、と言われそう)
しかし国に自分の感情まで規定されたくはないと思ってしまいます。
「純なこころ」という概念を確認するために格好の材料という気がして、あえて例にあげさせてもらいます。
感情に「正しさ」なんてあるのでしょうか?
「ここまで怖いのは異常だ」などと言って、自分の感情に価値判断をし、感情を抑えつけようとするのが、悩みの始まり。
「ちょっと怖がりすぎじゃない?」
「もう少しコロナに気をつかって怖がったほうがいいんじゃない?」
余計なお世話です。
怖いものは怖い。
怖くないものは怖くない。
これが「純なこころ」。
感情は個人の自由な領域です。
正しいも正しくないもない。
そのままでいいのです。
こんなふうに感情を価値判断するから、「あんなに怖がって臆病だ」「コロナがこわくないと無視するなんて非常識だ」とか批判する心が生まれてくるのです。
世間の価値判断に自分の感情を合わせようとする必要はありません。
というか、合わせることは本来できないはずです。
行動に関してはまた別の話です。
自分の感情は絶対ですが、理性と相談しながら行動を選択することはできます。
しかしながら、理性だけで突っ走るのも考え物です。
感情や欲求を無視して全部理性だけで判断していくと、必ずやどこかに破綻が生じます。
強引に前に進んで危険な目にあったり、健康を損ねたり・・・。
以上、述べたように、社会に感情を規定されるということは、珍しいことではありません。
各々の文化圏で、各々の価値観があり、同じようなことが起こっているのでしょう。
「臆病は悪だ、大胆さは貴重だ」というような・・・。
日本の武士道精神などもそういうところがあるのかもしれません。
根性論にも通じますね。
感情も欲望も身体も含めた、人間の自然性。
自分のなかの自然性を尊重し、そのまま認めること。
「純なこころ」を大切にすること。
実はこれこそが、「自己肯定感」の土台になるものなのです。
T.H氏撮影
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