花冷えの日に
桜は満開なのに寒い毎日です。
先週でしたか、あの大きな地震のあと、関東地方では電力不足の警報が出ました。
つまり火力発電所が地震で故障してしまったのに寒くなったので、電力が足りない。
使用を控えてくれ、というお達しでした。
東京近郊などの集合住宅では、石油ストーブが使用できないところが殆ど。
ガスは湯沸かしにしか使えません。
火事を防ぐためにオール電化に近い生活を強いられているのに、こんな寒い日に電気が使えないというのは、どういうことでしょう。
電力不足をアピールして原発復活をねらうのでしょうか?
今回のロシアの侵攻を見ても、原発を持っていること自体がこわいことのように思います。
だってロシアは真っ先にチョルノービリを占拠した、つまり核燃料がほしい?
(幸い今は撤退したようですが)
まぁ、そんなこんなで、あろうことか戦争も始まってしまい、おまけに各地で地震が頻発し、春なのに異様に寒く、なんだか先行きがわからない昨今です。
さて、その夜は、警報に従ってエアコンは切り、寒い中コタツにしがみついていました。
そうすると、あまりに寒くて(寒がりです)、身動きするのもおっくうになってきます。
頭のなかに「この時間はもったいない。何かできることがあるんじゃないか」という声が聞こえてきます。
おまけに「活動が人生である」というような森田正馬の言葉を思い出してしまいました。
多分全集の第七巻あたりにあった言葉のような気がする・・・。
調べてみたいが、全集を本棚から出して開くのもおっくう。
葛藤が始まります。
「こんなことしていないで、コタツのなかでできることでもしなくちゃ」
「確かに、動かないと、それは生きていることにならないのかもしれない」
「森田先生は病気のときにも本を読んでもらったりしていた。あれが活動するということなのか。だったら、寒いくらいでコタツにしがみついて何もしないのは、どうなのだろう?」
これが、森田療法が「かくあるべし」に変換される瞬間です。
「こうしなければならない森田」です。
そうこうしているうちに葛藤はますます深まります。
「しなければならない」と「したくない」との葛藤です。
神経質は欲求が大きいので、両方あきらめられない。
どちらかに決められない。
葛藤が大きくなると、今度はこの葛藤自体が不快になります。
葛藤することがイヤ、だからこの葛藤をなんとかしようとする。
頭のなかはますます混沌としてきます。
脳内の闘いが続くと「しなければならない」という気持ちも大きくなり、「したくない」という気持ちも大きくなります。
脳内膠着状態。
不快感だけが増していきます。
これが強迫神経症のかたの頭のなかかもしれません。
ここで「では、どうしたらいい?」と問うと、また脳内が混沌化します。
葛藤も混沌もそのまま放置するしかない。
大体、思考や脳なんて、混沌としているものです。
その晩、しばらくたって「もう、停電はなさそう」という時間になりました。
とにかくあまりに寒く、私はどうにもしかたなく、お風呂で温まり、ついでに食器洗いをし、布団にもぐりこんだのでした。
たいした行動はできなかったけれど、風邪をひかずにすんだ。
私たちの日常は、そんなところでいいのではないのでしょうか。
先週でしたか、あの大きな地震のあと、関東地方では電力不足の警報が出ました。
つまり火力発電所が地震で故障してしまったのに寒くなったので、電力が足りない。
使用を控えてくれ、というお達しでした。
東京近郊などの集合住宅では、石油ストーブが使用できないところが殆ど。
ガスは湯沸かしにしか使えません。
火事を防ぐためにオール電化に近い生活を強いられているのに、こんな寒い日に電気が使えないというのは、どういうことでしょう。
電力不足をアピールして原発復活をねらうのでしょうか?
今回のロシアの侵攻を見ても、原発を持っていること自体がこわいことのように思います。
だってロシアは真っ先にチョルノービリを占拠した、つまり核燃料がほしい?
(幸い今は撤退したようですが)
まぁ、そんなこんなで、あろうことか戦争も始まってしまい、おまけに各地で地震が頻発し、春なのに異様に寒く、なんだか先行きがわからない昨今です。
さて、その夜は、警報に従ってエアコンは切り、寒い中コタツにしがみついていました。
そうすると、あまりに寒くて(寒がりです)、身動きするのもおっくうになってきます。
頭のなかに「この時間はもったいない。何かできることがあるんじゃないか」という声が聞こえてきます。
おまけに「活動が人生である」というような森田正馬の言葉を思い出してしまいました。
多分全集の第七巻あたりにあった言葉のような気がする・・・。
調べてみたいが、全集を本棚から出して開くのもおっくう。
葛藤が始まります。
「こんなことしていないで、コタツのなかでできることでもしなくちゃ」
「確かに、動かないと、それは生きていることにならないのかもしれない」
「森田先生は病気のときにも本を読んでもらったりしていた。あれが活動するということなのか。だったら、寒いくらいでコタツにしがみついて何もしないのは、どうなのだろう?」
これが、森田療法が「かくあるべし」に変換される瞬間です。
「こうしなければならない森田」です。
そうこうしているうちに葛藤はますます深まります。
「しなければならない」と「したくない」との葛藤です。
神経質は欲求が大きいので、両方あきらめられない。
どちらかに決められない。
葛藤が大きくなると、今度はこの葛藤自体が不快になります。
葛藤することがイヤ、だからこの葛藤をなんとかしようとする。
頭のなかはますます混沌としてきます。
脳内の闘いが続くと「しなければならない」という気持ちも大きくなり、「したくない」という気持ちも大きくなります。
脳内膠着状態。
不快感だけが増していきます。
これが強迫神経症のかたの頭のなかかもしれません。
ここで「では、どうしたらいい?」と問うと、また脳内が混沌化します。
葛藤も混沌もそのまま放置するしかない。
大体、思考や脳なんて、混沌としているものです。
その晩、しばらくたって「もう、停電はなさそう」という時間になりました。
とにかくあまりに寒く、私はどうにもしかたなく、お風呂で温まり、ついでに食器洗いをし、布団にもぐりこんだのでした。
たいした行動はできなかったけれど、風邪をひかずにすんだ。
私たちの日常は、そんなところでいいのではないのでしょうか。
T.H氏撮影
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