「いい人」にならない
この話は主に対人恐怖の人に当てはまることかもしれません。
相手に対して自分を「いい人」に見せようとする構えが多い気がします。
たとえば相手に良く思われたくて、言いたいことも言わない。
相手のご機嫌をとったり、何かを頼まれてもイヤと言えない。
「それでいいではないか」「それも社交術ではないか」と思われるかもしれません。
それほど深く関わりのない人に「いい人」アピールをするのは、誰でもやっていること。
ある意味、自然なことなのでしょう。
ただ職場や親しい間柄の人にそれをやり続けていると、だんだん自分が苦しくなります。
典型的なのは、姑や舅に対して「いい嫁」アピールをしようとすること。
結局自分が苦しくなり、かえって疎遠になったりします。
自分の「本当のところ」でつきあうことができないから、実は誰からも好かれないという結果になりがちです。
ちょっと長い引用になりますが、有名な森田正馬の言葉を下記します。
「およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいということになる。
これに反して、人を気軽に便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでもよいというふうに、大胆になれば、はじめて人からも愛され、善人ともなるのである。つまり自分で善人となろうとする理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が悪人になれば、かえって善人になるのである」
(森田正馬全集5巻、205頁)
これを「人のために尽くせ」というような教条にしてしまうと、まったく意味が違ってしまいます。
森田療法はそんな表面的な浅いものではありません。
5巻のこの文章の前後を読めば理解できますが、これは「善人」を装うことなく「ありのままの自分」でいて、その実感から相手の幸せを考えて行動していくということです。
そのときにその善行が相手に知られなくてもいいし、逆に不満に思われても相手のためになっているならいい、ということです。
わかりやすい例で言えば、親子関係です。
親が子供の機嫌をうかがって、甘いものを喜ぶからとお菓子ばかりあげていたらどうなるでしょう?
当然子供は健康を損なうでしょう。
子供が不機嫌になっても制限するのが、普通の親です。
子供の例だったらわかりやすいけれど、これが他人だったらどうでしょう。
宴席で相手がかなりお酒を飲んでいても、相手が喜ぶからついでしまう。
せめてすすめるのをやめるとかすればいいのに、「いい人」でいたいから、相手の健康などどうでもよくなるのです。
あえて「いい人」になろうとすると、(頭で考えていますから)「自分の価値観の押し付け」をしたりすることになります。
「そのままの自分」でいて、自分自身の実感、「純なこころ」から判断すれば、意外にあまり的はずれな行動にはならないものです。
そしてたとえ自分の好意を謝絶されたにしても、「いい人」になろうとしているときよりも、「自然な自分」でいるときのほうが傷つかないのですね。
これは体験してみないとわからないことですが。
相手に対して自分を「いい人」に見せようとする構えが多い気がします。
たとえば相手に良く思われたくて、言いたいことも言わない。
相手のご機嫌をとったり、何かを頼まれてもイヤと言えない。
「それでいいではないか」「それも社交術ではないか」と思われるかもしれません。
それほど深く関わりのない人に「いい人」アピールをするのは、誰でもやっていること。
ある意味、自然なことなのでしょう。
ただ職場や親しい間柄の人にそれをやり続けていると、だんだん自分が苦しくなります。
典型的なのは、姑や舅に対して「いい嫁」アピールをしようとすること。
結局自分が苦しくなり、かえって疎遠になったりします。
自分の「本当のところ」でつきあうことができないから、実は誰からも好かれないという結果になりがちです。
ちょっと長い引用になりますが、有名な森田正馬の言葉を下記します。
「およそ自分が善人として、周囲の人から認められるためには、人が自分に対して、気兼ねし遠慮しようが、うるさく面倒がろうが、人の迷惑はどうでもよいということになる。
これに反して、人を気軽に便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでもよいというふうに、大胆になれば、はじめて人からも愛され、善人ともなるのである。つまり自分で善人となろうとする理想主義は、私のいわゆる思想の矛盾で、反対の悪人になり、自分が悪人になれば、かえって善人になるのである」
(森田正馬全集5巻、205頁)
これを「人のために尽くせ」というような教条にしてしまうと、まったく意味が違ってしまいます。
森田療法はそんな表面的な浅いものではありません。
5巻のこの文章の前後を読めば理解できますが、これは「善人」を装うことなく「ありのままの自分」でいて、その実感から相手の幸せを考えて行動していくということです。
そのときにその善行が相手に知られなくてもいいし、逆に不満に思われても相手のためになっているならいい、ということです。
わかりやすい例で言えば、親子関係です。
親が子供の機嫌をうかがって、甘いものを喜ぶからとお菓子ばかりあげていたらどうなるでしょう?
当然子供は健康を損なうでしょう。
子供が不機嫌になっても制限するのが、普通の親です。
子供の例だったらわかりやすいけれど、これが他人だったらどうでしょう。
宴席で相手がかなりお酒を飲んでいても、相手が喜ぶからついでしまう。
せめてすすめるのをやめるとかすればいいのに、「いい人」でいたいから、相手の健康などどうでもよくなるのです。
あえて「いい人」になろうとすると、(頭で考えていますから)「自分の価値観の押し付け」をしたりすることになります。
「そのままの自分」でいて、自分自身の実感、「純なこころ」から判断すれば、意外にあまり的はずれな行動にはならないものです。
そしてたとえ自分の好意を謝絶されたにしても、「いい人」になろうとしているときよりも、「自然な自分」でいるときのほうが傷つかないのですね。
これは体験してみないとわからないことですが。
T.H氏撮影
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