強迫神経症があっても その3 「アビエイター」
さて、強迫神経症(現在の呼称だと強迫性障害)の人が主人公の映画などをとりあげてきましたが、今回はその最後。
マーチン・スコセッシ監督の「アビエイター」です。主演はレオナルド・ディカプリオ。
これは実業家、ハワード・ヒューズの伝記映画であり、実話です。
ですから、強迫神経症の描き方もリアルで痛々しいほどです。
ハワード・ヒューズ(1905~1976)は、米国の実業家、映画や航空機業界で仕事をした人です。
彼は18歳で両親をなくし、巨万の富を相続します。
彼はその富を、自分の夢を実現するために使い始めます。
撮りたかった映画を作り、作りたい航空機を仕上げるために巨額の富を投じ、評価はどうであろうと、次々と実現させていきます。
ところが、飛行機を製作する過程で墜落事故にあい、その頃から強迫神経症を発症します。
もともとそういう傾向はあったようですが、それがひどくなったようです。
手を洗い始めたらとまらない。
部屋のなかでも、「清潔な場所」と「汚染されている場所」があって、清潔な(と自分が思う)場所にしかいられない。
ちなみに、話は映画からそれますが、森田療法の創始者、森田正馬は「不潔恐怖は不潔になる」と言いました。
強迫的になって手をずっと洗っているのだから、不潔にはならない、むしろ綺麗好きな人かもしれないと思われるかもしれません。
しかし、不潔恐怖の人が戦っているのは、観念のなかの汚れです。実際の汚れではないのです。
観念の汚れは、洗っても洗っても取れるはずがありません。
そして、洗い始めたらとまらない。確認し始めたらずっと続けなくてはならないと悟ると、どこかの時点で、その行為をすべてやめてしまうことになる。
手をつけなければ、格闘しなくてすむわけです。
そうやって、洗うという行為を拒否し始めると、自分および自分の周囲はひたすら汚れていきます。
それは快い状態ではないけれど、あの果てしない強迫行為よりはずっと楽なのです。
このような状態になる人は、かなり重症な強迫神経症と言えるかもしれません。
とにかくハワード・ヒューズは、重症の強迫神経症でした。
そんなに重症だと、傍目には錯乱しているかのように受け取れるのです。
「アビエイター」のクライマックス。
ヒューズが一室にこもり、強迫的な反復行為などで錯乱状態にいるとき、同じ航空機業界のパンナム航空の社長が訪ねてきます。
パンナム社は、国際線を独占するために、ヒューズのトランスワールド航空を追い落とそうとします。
ヒューズのスキャンダルを大々的にとりあげ、世論を盛り上げて政治家も使い、公聴会を開いて、彼を追い込もうとするのです。
(余談ですが、いつの世でも、政治家と企業は結託して陰謀を企むのですね)
パンナムの社長は、錯乱したヒューズの様子を垣間見て、自分の勝ちを確信します。「相手は精神的にやられている。楽勝だ」と思ったのでしょう。
ところが公聴会当日、彼の思惑ははずれ、ヒューズは明晰な論理と実証で、逆にパンナムと陰謀に加担した議員を論破します。
世論はヒューズに味方し、彼は勝ったのです。
そうです。強迫神経症の人は、「錯乱」などしないのです。
たとえ強迫観念や行為に悩んでいても、傍目には奇妙に見えても、幻の「汚れ」と格闘していても、それ以外の部分はまったくノーマルです。
むしろ頭脳明晰です。
このヒューズの強迫症状は飛行機事故で受けた脳の損傷によるという説もあるようです。
が、映画から推測すると、彼は強迫神経症の人に共通する性格特徴を備えていたようです。
完全主義
理知的
負け嫌い
自分を通していく強さ
粘り強さ
このような性格だったからこそ、彼は、強迫症状がありながらも大きな事業を展開し、米国史に名を残す人物となったのでしょう。
映画では語られませんが、ヒューズ自身は強迫症状へのいっさいの治療を拒否したそうです。
そして症状は悪化し、人と会うこともなくなり、晩年は自分が買収したラスベガスの豪華ホテルのスイートで、垢にまみれ、髪や爪も伸び放題で暮らし、死んでいったようです。
その最後を聞くと、何か悲惨な生涯だったような気がします。
しかし、果たしてそうでしょうか?
そもそも生物としての人間の死にざまなど、自分がコントロールできるものでもありません。
メロドラマのような美しい死などありえないのです。
むしろ、彼の生き方を見た時、ある意味、それはすごいことではないかと思ってしまいます。
彼は、生まれつきの強度の難聴があり、なおかつ重度の強迫神経症という、いくつもの障害を抱えていたわけです。
航空機事故で大怪我もしました。
にもかかわらず、彼は実に積極的に実業の世界に乗り出し、自分の夢を実現させるために、どんな労力も惜しまず、そして成果を残したのです。
考えてみると、もし彼がこのような我の強い性格でなかったら、18歳で巨億の富を継いだとき、周囲に利用され、邪魔され、自分の夢を追うことなどできなかったでしょう。
あるいは、有り余る富のために意欲をなくし、酔生夢死に終わったかもしれません。
幾多の苦しみに悩みながらも、空を目指し、夢を追った生き様こそが、立派なのかもしれません。
私はこの「アビエイター」から、そんなことを感じ取りました。
強迫神経症があっても夢は追える。
いや、何があっても夢は追えるのです。


マーチン・スコセッシ監督の「アビエイター」です。主演はレオナルド・ディカプリオ。
これは実業家、ハワード・ヒューズの伝記映画であり、実話です。
ですから、強迫神経症の描き方もリアルで痛々しいほどです。
ハワード・ヒューズ(1905~1976)は、米国の実業家、映画や航空機業界で仕事をした人です。
彼は18歳で両親をなくし、巨万の富を相続します。
彼はその富を、自分の夢を実現するために使い始めます。
撮りたかった映画を作り、作りたい航空機を仕上げるために巨額の富を投じ、評価はどうであろうと、次々と実現させていきます。
ところが、飛行機を製作する過程で墜落事故にあい、その頃から強迫神経症を発症します。
もともとそういう傾向はあったようですが、それがひどくなったようです。
手を洗い始めたらとまらない。
部屋のなかでも、「清潔な場所」と「汚染されている場所」があって、清潔な(と自分が思う)場所にしかいられない。
ちなみに、話は映画からそれますが、森田療法の創始者、森田正馬は「不潔恐怖は不潔になる」と言いました。
強迫的になって手をずっと洗っているのだから、不潔にはならない、むしろ綺麗好きな人かもしれないと思われるかもしれません。
しかし、不潔恐怖の人が戦っているのは、観念のなかの汚れです。実際の汚れではないのです。
観念の汚れは、洗っても洗っても取れるはずがありません。
そして、洗い始めたらとまらない。確認し始めたらずっと続けなくてはならないと悟ると、どこかの時点で、その行為をすべてやめてしまうことになる。
手をつけなければ、格闘しなくてすむわけです。
そうやって、洗うという行為を拒否し始めると、自分および自分の周囲はひたすら汚れていきます。
それは快い状態ではないけれど、あの果てしない強迫行為よりはずっと楽なのです。
このような状態になる人は、かなり重症な強迫神経症と言えるかもしれません。
とにかくハワード・ヒューズは、重症の強迫神経症でした。
そんなに重症だと、傍目には錯乱しているかのように受け取れるのです。
「アビエイター」のクライマックス。
ヒューズが一室にこもり、強迫的な反復行為などで錯乱状態にいるとき、同じ航空機業界のパンナム航空の社長が訪ねてきます。
パンナム社は、国際線を独占するために、ヒューズのトランスワールド航空を追い落とそうとします。
ヒューズのスキャンダルを大々的にとりあげ、世論を盛り上げて政治家も使い、公聴会を開いて、彼を追い込もうとするのです。
(余談ですが、いつの世でも、政治家と企業は結託して陰謀を企むのですね)
パンナムの社長は、錯乱したヒューズの様子を垣間見て、自分の勝ちを確信します。「相手は精神的にやられている。楽勝だ」と思ったのでしょう。
ところが公聴会当日、彼の思惑ははずれ、ヒューズは明晰な論理と実証で、逆にパンナムと陰謀に加担した議員を論破します。
世論はヒューズに味方し、彼は勝ったのです。
そうです。強迫神経症の人は、「錯乱」などしないのです。
たとえ強迫観念や行為に悩んでいても、傍目には奇妙に見えても、幻の「汚れ」と格闘していても、それ以外の部分はまったくノーマルです。
むしろ頭脳明晰です。
このヒューズの強迫症状は飛行機事故で受けた脳の損傷によるという説もあるようです。
が、映画から推測すると、彼は強迫神経症の人に共通する性格特徴を備えていたようです。
完全主義
理知的
負け嫌い
自分を通していく強さ
粘り強さ
このような性格だったからこそ、彼は、強迫症状がありながらも大きな事業を展開し、米国史に名を残す人物となったのでしょう。
映画では語られませんが、ヒューズ自身は強迫症状へのいっさいの治療を拒否したそうです。
そして症状は悪化し、人と会うこともなくなり、晩年は自分が買収したラスベガスの豪華ホテルのスイートで、垢にまみれ、髪や爪も伸び放題で暮らし、死んでいったようです。
その最後を聞くと、何か悲惨な生涯だったような気がします。
しかし、果たしてそうでしょうか?
そもそも生物としての人間の死にざまなど、自分がコントロールできるものでもありません。
メロドラマのような美しい死などありえないのです。
むしろ、彼の生き方を見た時、ある意味、それはすごいことではないかと思ってしまいます。
彼は、生まれつきの強度の難聴があり、なおかつ重度の強迫神経症という、いくつもの障害を抱えていたわけです。
航空機事故で大怪我もしました。
にもかかわらず、彼は実に積極的に実業の世界に乗り出し、自分の夢を実現させるために、どんな労力も惜しまず、そして成果を残したのです。
考えてみると、もし彼がこのような我の強い性格でなかったら、18歳で巨億の富を継いだとき、周囲に利用され、邪魔され、自分の夢を追うことなどできなかったでしょう。
あるいは、有り余る富のために意欲をなくし、酔生夢死に終わったかもしれません。
幾多の苦しみに悩みながらも、空を目指し、夢を追った生き様こそが、立派なのかもしれません。
私はこの「アビエイター」から、そんなことを感じ取りました。
強迫神経症があっても夢は追える。
いや、何があっても夢は追えるのです。
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