「今、ここ」にいること
考え事をしながら信号待ちをしているうちに、気づくと目の前の信号はもう青。
一緒に信号待ちしていた人たちは、すでにさっさと渡ってしまっている・・・なんてことは、誰でも経験したことがあると思います。
あるいは、なんだかボーっとしているうちに、逆方向の電車に乗ってしまった。
うわの空で料理を作っていると「あれ? もうお塩入れたっけ?」とわからなくなる。
そんなことをしているのは、私だけではないですよね?
私は、かなり「うわの空」の人なので、こんなことは日常茶飯事。
困ったものです。
人間の脳は、途方もなく発達してしまったので、目の前のことだけでなく、過去のことを思い出して反芻したり、未来のことを思い描いたり、まったく目に見えないことを推理や計算で証明したり、イマジネーションの世界で遊んだりする、という能力を獲得しました。
それは、人間が人間である証明のようなもので、このような脳力があるからこそ、私たちはここまでの進化した社会を作り上げているわけです。
しかし、ものごとには当然のことながら、困った面もあるわけで、この内省する力、空想・幻想を抱く力が、私たちを悩ませることもあるのです。
特に不安や心配にいつも怯えている人たちは、過去のことを考えると「あぁすればよかった。あんなことをしてしまって、私はもう駄目だ」などと思い、未来のことを思うと「きっとこの苦境は生きている限り続くのだ」「明日もまた失敗したらどうしよう」などとぐるぐる思いを巡らせるのです。
客観的には、そこまで困ったことは起きていないのですが、この心的な状態は、深い悩みの悪循環を招いたりします。
まるで自分の思考が、事実のように感じられ、何か少しのことでうちひしがれ、未来がこわくて足を踏み出すことができなくなる。
空想の中だけの出来事なのに、その事に対して悲しんだり、怒ったり、強烈な感情が湧いてくる。
それもたいていは、あまり快くない感情です。
結果として、現実的には何も動いていないし、たいして悪いことも起きていないのに、
心のなかでは、自分は不幸で不運な人になっていきます。
悲観的な人は、きっと毎日、そういうことに励んでいるのですね。
そんな人にお勧めしたいのは「今、ここ」にいること。
悲観的な考え事に気持ちを持っていかれそうになったら、「あれ? 私は今、何をしている?」と、目の前の状況に立ち返るのです。
ふと気を取り直し、「私は今、スーパーに野菜を買いにいくところ。ここは手前の信号。あ、点滅している。走らなくちゃ」と、目の前の現実に立ち返るのです。
森田正馬は、「今、ここ」という言葉は使用しませんでした。
この「今、ここ」という言い方は、西洋の心理学、ゲシュタルトアプローチなどが入ってきてから頻繁に使用されるようになった言葉だと思います。
しかし、森田療法の指導のなかには「今、ここ」にいることが、重要な要素として含まれます。
何しろ神経症の真っただ中にあるときは、自分の「空想の世界」と「目の前の事実」との区別もあいまいになっています。
「事実」と言っても「何が事実?」と問い返されることが、ままあります。
たとえば、もう5回も石鹸で手を洗ったのに、まだ不十分な気がする。
それに、もっとしっかり洗っておかないと、出かけてから手のことが気になって、また不安になる気がする。
だからあと5回洗っておこう。
これはもう、すべて自分の架空の感覚、架空の予想にもとづいた行動です。
森田療法の「事実」とは、哲学的な意味合いを含んでいません。
ただ、目の前の現実のことを言います。
そんなことをしているうちに時間は刻々と過ぎていく、それが事実。
洗った手には、一見したところ、どこにも汚れはついていない、それが事実。
神経症とは、自分の主観的なことを「事実」と信じ込んでいる状態で、そのために自分を追い込んでいるのですから、ただ、目の前の事実に沿って生活するだけで、ずいぶん楽になるのです。
神経症の人だけでなく、いつも過去のことでくよくよ悩んだり、悲しんだりしている人、心配性で、先のことがあまり明るく考えられない人にも、「今、ここ」に立ち返ることは役に立つと思います。
こういう人たちは、無理矢理「ポジティブになろう!」としても、到底不可能なので、そんなときにはただ「今、自分はどこにいて、何をしている?」ということに意識を持ってくればいいのです。
しかし、これを「いつも、今ここにいなくてはならない」とすると、また教条になります。
時には空想にふけるのもいいし、将来のビジョンや夢を思い描くのもいい。
ただ、あまりに自分の内面の思考の悪循環が辛かったら、「今、ここ」を意識してみるといいかなというだけです。
けれど、それも「今、ここに集中しなさい」という意味ではありません。
ここが、森田療法の理解されにくいところでもあるのですが、今ここにいながら、注意を四方八方に働かせる。
これを「無所住心」と言います。
その話はまた次のときに。
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