動的平衡
前にもブログに書きましたが、このところ、福岡伸一という生物学者の本を読んでいます。
このかたは、むずかしいことを易しく書く名人で、生物学の知識などを素人にわかりやすいように書いてくれているので、面白く読み進められます。
書店に行くと、このかたの新刊が山積みになっているので、きっと同じように感じる読者がいて、人気があるのでしょう。
私の読んだ二冊の本『動的平衡』と『生物と無生物の間』は、「生命とは何か?」ということがテーマとなっています。
これはよく知られていることかもしれませんが、生命現象は(私たち人間も含めて)、一見何も変わっていないように見えて、そのなかで細胞のひとつひとつや、身体の器官の働きも、すべてが一瞬も休むことなく動き続け、変化し続け、そうすることで生命体を維持し、安定させています。
以下、福岡伸一博士の言葉
「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである」
「つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている・・・」
「そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように「動的平衡」という素敵な名前をつけた」
「生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである」
ここまで書けば、私が、なぜこの「動的平衡 Dynamic equilibrium 」という言葉に魅力を感じたかがおわかりになりますよね。
少なくとも、森田療法に明るいかたなら。
この動的平衡は、そのまま人間の「精神」に当てはまるのではないか・・・
そして、これを精神に置き換えると、まったく同じ事を森田正馬博士が既に100年近く前に言っているのではないか。
というのは、飛躍でしょうか。
森田博士もまた、「精神」を構造ではなく「効果」と見ています。
「精神の研究は、必ず外界と自我との相対する間に求め、その変化流転の内にきわめなければならない」
「精神という固定した実体があるのではない。まきが燃えるときに、刹那もそれが一定の形を保つことのできないように、内界と外界との間に、相関的に絶えず変化流動しているもの、これが精神というものである。まきでもない、酸素でもない、燃焼の現象が、そのまま精神である」
(神経質の本態と療法 森田正馬)
これはまさに「動的平衡」と同じ概念ですよね。
精神は「構造」ではなく「効果」なのです。
生物学でもそうですが、生命も精神も、そうやって変化流動しながら「環境」に対応しているわけです。
「心は万境に従って転ず。 転ずるところ、実に能(よ)く幽なり」という中国の古語を、森田博士はよく引用しました。
それについての森田自身の説明。
「もし心が自然のままであったときには、その発動が盛んであって、周囲に適応することが、きわめて微妙であり、かつ強盛であることを体得することができる」
つまり、私たちが小賢しい知恵を絞ってすることなどより、ずっとものすごいことを、私たちの心の自然はやってのけてくれるわけです。
もちろん、生物学的に身体も同じようなプロセスで、毎瞬毎瞬、私たちを支えてくれています。
「サスティナブル(継続維持されるもの)なものは、常に動いている。その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも、環境との間に一定の平衡状態を保っている。一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。サステイナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる」
(「動的平衡」 福岡伸一)
心と身体は同じもの・・・と森田正馬は言いました。
だとしたら、上記の言葉は精神にも当てはまるはず。
心の流れるまま、立ち止まることなく動きながら、環境の変化についていけば、きっと心も癒えるはず。
自分のなかの(偉大な)自然性を、もっと信じてあげていいのだろうと思うのす。



このかたは、むずかしいことを易しく書く名人で、生物学の知識などを素人にわかりやすいように書いてくれているので、面白く読み進められます。
書店に行くと、このかたの新刊が山積みになっているので、きっと同じように感じる読者がいて、人気があるのでしょう。
私の読んだ二冊の本『動的平衡』と『生物と無生物の間』は、「生命とは何か?」ということがテーマとなっています。
これはよく知られていることかもしれませんが、生命現象は(私たち人間も含めて)、一見何も変わっていないように見えて、そのなかで細胞のひとつひとつや、身体の器官の働きも、すべてが一瞬も休むことなく動き続け、変化し続け、そうすることで生命体を維持し、安定させています。
以下、福岡伸一博士の言葉
「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである」
「つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている・・・」
「そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように「動的平衡」という素敵な名前をつけた」
「生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである」
ここまで書けば、私が、なぜこの「動的平衡 Dynamic equilibrium 」という言葉に魅力を感じたかがおわかりになりますよね。
少なくとも、森田療法に明るいかたなら。
この動的平衡は、そのまま人間の「精神」に当てはまるのではないか・・・
そして、これを精神に置き換えると、まったく同じ事を森田正馬博士が既に100年近く前に言っているのではないか。
というのは、飛躍でしょうか。
森田博士もまた、「精神」を構造ではなく「効果」と見ています。
「精神の研究は、必ず外界と自我との相対する間に求め、その変化流転の内にきわめなければならない」
「精神という固定した実体があるのではない。まきが燃えるときに、刹那もそれが一定の形を保つことのできないように、内界と外界との間に、相関的に絶えず変化流動しているもの、これが精神というものである。まきでもない、酸素でもない、燃焼の現象が、そのまま精神である」
(神経質の本態と療法 森田正馬)
これはまさに「動的平衡」と同じ概念ですよね。
精神は「構造」ではなく「効果」なのです。
生物学でもそうですが、生命も精神も、そうやって変化流動しながら「環境」に対応しているわけです。
「心は万境に従って転ず。 転ずるところ、実に能(よ)く幽なり」という中国の古語を、森田博士はよく引用しました。
それについての森田自身の説明。
「もし心が自然のままであったときには、その発動が盛んであって、周囲に適応することが、きわめて微妙であり、かつ強盛であることを体得することができる」
つまり、私たちが小賢しい知恵を絞ってすることなどより、ずっとものすごいことを、私たちの心の自然はやってのけてくれるわけです。
もちろん、生物学的に身体も同じようなプロセスで、毎瞬毎瞬、私たちを支えてくれています。
「サスティナブル(継続維持されるもの)なものは、常に動いている。その動きは「流れ」、もしくは環境との大循環の輪の中にある。サスティナブルは流れながらも、環境との間に一定の平衡状態を保っている。一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できるのだ。サステイナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる」
(「動的平衡」 福岡伸一)
心と身体は同じもの・・・と森田正馬は言いました。
だとしたら、上記の言葉は精神にも当てはまるはず。
心の流れるまま、立ち止まることなく動きながら、環境の変化についていけば、きっと心も癒えるはず。
自分のなかの(偉大な)自然性を、もっと信じてあげていいのだろうと思うのす。
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