「チェルノブイリ・ハート」雑感
原発のことになると、私はしつこい。
お許し下さい。
私が原発の怖さを初めて知ったのは、大昔、「チャイナ・シンドローム」という映画を見てからでした。
これは、原発事故とその恐怖をめぐる映画でしたが、この映画の公開直後にスリーマイル島の原発事故が起こり、一躍大ヒットしたといういわくつきのものです。
それまで原子力発電について、全く無知だった私も、さすがに恐ろしいと思い始めました。
映画では事故でメルトダウンが起こると、放射性物質が地球を貫通してしまうということでしたが、実際はそこまでの可能性はないようです。
しかし、地球のかなり深くまで貫通していくことは確かなようです。
それから私は、友人の情報で「反原発新聞」というのを購読し始め、これはたいへんだと、署名などの活動も始めました。
ところが、(多分、チェルノブイリ後だったと思うのですが)周りの人たちの反応は、実に冷めたもので、なぜそんなことを気にするの?という感じでした。
そこまで反応がないと、私もだんだん気持ちが萎えてきて、徐々に原発のことを考えることもなくなってきました。
ところが、今回の3・11、そして福島第一原発の事故。
まさか自分が生きているうちに、こんな大事故が起こるとは思っていなかったので、あの時期はまさに恐怖と不安の日々でした。
そしてもう一度、原発や放射能というものを考えようと思っているこの頃です。
それは単に学習とか、知識を得るとかいうことではなく、もっと切実なことだと思うのです。
原発問題は、政治や経済の問題ではありません。
人間の生命に関わる問題、人類の生存に関わる問題です。
もし、再び大地震が起こり、どこかの原発で事故が起きたら、もう日本という国は無くなってしまいます。
そのときに国土の形は残ったとしても、子孫たちが傷つき、人口が減っていくという形で国は消えていくでしょう。
これは原発を持っているどの国でも、地球規模で考えられる問題です。
もちろん、今回の事故とチェルノブイリの事故とでは、違うところは様々あります。
情報が封印されて、人々が放射能のなかに置き去りにされたチェルノブイリと、ネットで放射能の情報が行き渡り、対策がとられている日本とでは、かなりの差異があるかもしれません。
(もちろん、情報の隠匿はありましたけれどね)
それに日本にはお金があります。
医療体制も整っているし、検査体制も整っていると思います。
おまけに、もう「新型出生前診断」なんかも始まったし・・・(これについては、コメントは控えますが、タイミング良すぎますよね)
「チェルノブイリ・ハート」のような惨状にはならないかもしれません(希望的観測も入りますが)。
ただ、このところ、放射能や原発について「否認」の風潮がはびこっているような気がします。
「否認」とは、心理学用語で「あったことをなかったことにする」ということです。
「もうその問題にはなるべく触れない」
「自分たちの力ではどうにもならないのだから、別のこと、明るいことを考えよう」
そんな風潮です。
それに加え、「福島の人たちの差別につながる」「風評被害を助長する」というようなコメントを聞くと、なるべく放射能のことは言わないほうがいいのかしら、という気持ちにもなります。
しかし、よく考えてみれば、福島の人たちがきちんと守られているなら、放射能に関する情報がきちんと共有されているなら、そんなことは起こり得ない。
それに「差別」されるのは、関東東北一円の人たちであって福島だけではない。
あの3月に、関東東北一円に大量の放射性物質が降り注いだことは、確かなのですから。
(広報はいっさいありませんでしたけれどね。私は予測できたので、周囲の人を含め、ずっとマスクをしていました。もちろんそれで防げるレベルかは、わかりません)
私たちは自分で自分を守らなくてはなりません。
だって「ホワイトホース」の若者が言っていたように、癌で早死しても、心臓疾患で亡くなっても、放射能との因果関係は証明できないのですから。
さて「否認」のことに戻りますと、もう政治家が一丸となって否認しているように見えてしまいます。
それにともなって、大震災の被災自体、原発被害自体が風化しているのではないかと思います。
「再稼働」は、ものを知らない人の発言と思いますし、何よりも私がびっくりしたのは「東京オリンピック」という企画です。
チェルノブイリ級事故のあった近くでオリンピックをすると言われたら、他の国の人たちは唖然としますよね。
せめて名古屋、大阪、神戸でしょう。
民衆には「パンと見世物」を与えれば満足するという言葉は、古代ローマ帝国時代のものです。
まさに、政治の常套手段を踏襲していますね。
それだけのお金があるなら、被災地のために使ってほしい。
子どもたちを守ってほしい。
人体から放射能を排出する方法をしっかり研究してほしいと切実に思うのです。
いつになく熱くなってしまいました。
放射能排出のことについては、このブログの「社会」のなかの「放射能の話」を読んでください。
自然な生活と、梅干しと玄米だそうですよ!
次のブログで、「チェルノブイリ・ハート」の冒頭に素敵な詩が出てきたので、それを転載させていただきます。
「さよなら原発1000万人アクション」のサイトをリンクに加えました。
もう800万人のかたが署名しています。
ご賛同いただけるならどうぞ。
お許し下さい。
私が原発の怖さを初めて知ったのは、大昔、「チャイナ・シンドローム」という映画を見てからでした。
これは、原発事故とその恐怖をめぐる映画でしたが、この映画の公開直後にスリーマイル島の原発事故が起こり、一躍大ヒットしたといういわくつきのものです。
それまで原子力発電について、全く無知だった私も、さすがに恐ろしいと思い始めました。
映画では事故でメルトダウンが起こると、放射性物質が地球を貫通してしまうということでしたが、実際はそこまでの可能性はないようです。
しかし、地球のかなり深くまで貫通していくことは確かなようです。
それから私は、友人の情報で「反原発新聞」というのを購読し始め、これはたいへんだと、署名などの活動も始めました。
ところが、(多分、チェルノブイリ後だったと思うのですが)周りの人たちの反応は、実に冷めたもので、なぜそんなことを気にするの?という感じでした。
そこまで反応がないと、私もだんだん気持ちが萎えてきて、徐々に原発のことを考えることもなくなってきました。
ところが、今回の3・11、そして福島第一原発の事故。
まさか自分が生きているうちに、こんな大事故が起こるとは思っていなかったので、あの時期はまさに恐怖と不安の日々でした。
そしてもう一度、原発や放射能というものを考えようと思っているこの頃です。
それは単に学習とか、知識を得るとかいうことではなく、もっと切実なことだと思うのです。
原発問題は、政治や経済の問題ではありません。
人間の生命に関わる問題、人類の生存に関わる問題です。
もし、再び大地震が起こり、どこかの原発で事故が起きたら、もう日本という国は無くなってしまいます。
そのときに国土の形は残ったとしても、子孫たちが傷つき、人口が減っていくという形で国は消えていくでしょう。
これは原発を持っているどの国でも、地球規模で考えられる問題です。
もちろん、今回の事故とチェルノブイリの事故とでは、違うところは様々あります。
情報が封印されて、人々が放射能のなかに置き去りにされたチェルノブイリと、ネットで放射能の情報が行き渡り、対策がとられている日本とでは、かなりの差異があるかもしれません。
(もちろん、情報の隠匿はありましたけれどね)
それに日本にはお金があります。
医療体制も整っているし、検査体制も整っていると思います。
おまけに、もう「新型出生前診断」なんかも始まったし・・・(これについては、コメントは控えますが、タイミング良すぎますよね)
「チェルノブイリ・ハート」のような惨状にはならないかもしれません(希望的観測も入りますが)。
ただ、このところ、放射能や原発について「否認」の風潮がはびこっているような気がします。
「否認」とは、心理学用語で「あったことをなかったことにする」ということです。
「もうその問題にはなるべく触れない」
「自分たちの力ではどうにもならないのだから、別のこと、明るいことを考えよう」
そんな風潮です。
それに加え、「福島の人たちの差別につながる」「風評被害を助長する」というようなコメントを聞くと、なるべく放射能のことは言わないほうがいいのかしら、という気持ちにもなります。
しかし、よく考えてみれば、福島の人たちがきちんと守られているなら、放射能に関する情報がきちんと共有されているなら、そんなことは起こり得ない。
それに「差別」されるのは、関東東北一円の人たちであって福島だけではない。
あの3月に、関東東北一円に大量の放射性物質が降り注いだことは、確かなのですから。
(広報はいっさいありませんでしたけれどね。私は予測できたので、周囲の人を含め、ずっとマスクをしていました。もちろんそれで防げるレベルかは、わかりません)
私たちは自分で自分を守らなくてはなりません。
だって「ホワイトホース」の若者が言っていたように、癌で早死しても、心臓疾患で亡くなっても、放射能との因果関係は証明できないのですから。
さて「否認」のことに戻りますと、もう政治家が一丸となって否認しているように見えてしまいます。
それにともなって、大震災の被災自体、原発被害自体が風化しているのではないかと思います。
「再稼働」は、ものを知らない人の発言と思いますし、何よりも私がびっくりしたのは「東京オリンピック」という企画です。
チェルノブイリ級事故のあった近くでオリンピックをすると言われたら、他の国の人たちは唖然としますよね。
せめて名古屋、大阪、神戸でしょう。
民衆には「パンと見世物」を与えれば満足するという言葉は、古代ローマ帝国時代のものです。
まさに、政治の常套手段を踏襲していますね。
それだけのお金があるなら、被災地のために使ってほしい。
子どもたちを守ってほしい。
人体から放射能を排出する方法をしっかり研究してほしいと切実に思うのです。
いつになく熱くなってしまいました。
放射能排出のことについては、このブログの「社会」のなかの「放射能の話」を読んでください。
自然な生活と、梅干しと玄米だそうですよ!
次のブログで、「チェルノブイリ・ハート」の冒頭に素敵な詩が出てきたので、それを転載させていただきます。
「さよなら原発1000万人アクション」のサイトをリンクに加えました。
もう800万人のかたが署名しています。
ご賛同いただけるならどうぞ。
- 関連記事
-
- ヒクメット「生きることについて」
- 「チェルノブイリ・ハート」雑感
- 「チェルノブイリ・ハート」紹介