AC的「カラマーゾフの兄弟」
私の話題はいつも時期がずれますが、3月までテレビで「カラマーゾフの兄弟」というドラマをやっていました。
テレビドラマなど殆ど見ないのですが、これだけは面白くて見ていました。
(「もっと早く言って」と思われるかもしれませんが、DVDで見るという手もあります)
これは、もちろんあのドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を日本のドラマにしたものです。
初めてチャンネルを回した時に、画面のあまりの「暗さ」に思わず笑ってしまいました。
タイトルバックに出てくるのは大きなカラス。
色彩は「黒」が基調。
でも私がなぜこのドラマを、その後続けて見ようと思ったかというと、もちろんイケメンが三人出ているということもありますが(^^;)、StonesのPaint It Black がテーマソングだったからですね。
これはトリビアですが、「カラマーゾフ」という姓には「黒く塗る」という意味があります。
「カラ」がチュルク・タタール語では「黒」、ロシア語で「マザーチ」は「塗る」の意味なので、ドストエフスキーは、わざと「カラマーゾフ」=「黒塗り」という意味の苗字を使用したのです。
で、Paint It Black がテーマソングということは、製作者がかなり思い入れをもって作っているのだなと感じられたわけです。
もちろん原作は世界の名作と言われるだけあり、重厚長大の代名詞のような作品です。
私はこれを高校生ぐらいのときに読みましたが、そのときは、クリスチャンスクールにいたこともあり、あまり抵抗なくスラスラと読めました。
これをきっかけに読みなおしてみましたが、結構たいへんでした。
これを読み通せる人が何人いるだろうかと思ってしまったほどです。
なぜ大変かというと、この小説のテーマが「キリストおよびキリスト教」あるいは「ロシア的なもの」なので、その時代背景を知らないと、現代人にとっては馴染みのないことばかりになるわけです。
でもテレビドラマは、こういうものを全部除いて、それでも面白く作ってありました。
一部「ドラマなのに演技が大げさ」という声もあったようですが、ドストエフスキーの原作を読んで演技したらこうならざるを得ないかもしれません。
なにしろ、原作の登場人物は、のべつ「病的に興奮」したり「感極まったり」「激情の発作」に駆られたりして、しゃべりまくっています。
感情抑制的な日本人から見ると異世界ですね。
で、ドラマから連想して、私が本を読んで再確認したのは、キリスト教とロシア的なものを除いたら、この物語の隠れたテーマとして浮かび上がってくるのは、「児童虐待」なのだということです。
あの有名な「大審問官」の物語もいいかもしれませんが、私にとって印象的なのは、その前段にある、虐げられた子どもたちの物語です。
大審問官の物語を作ったイワン(次男)は、その児童虐待の描写を聞かせることで、はからずもアリョーシャ(三男)の秘められた攻撃性を引き出します。
そしてドミトリー(長男)は、寒さと餓えに泣いている童子の夢を見ます。
もちろん全体を俯瞰するとき、忘れてはならないのは、この三人兄弟(実は四人)が全員、きちんと保護された幼年時代を送っていないということです。
つまり今風の言葉で言えば、四人ともAC(アダルト・チャイルド)なのですね。
物語がテーマなのでお遊びですが、四人を見てみると、ドミトリーが幼い頃、ネグレクトされていたという描写はよく出てきます。
彼は、大金を手に入れるとすぐに大盤振る舞いして使ってしまうという浪費者です。
アディクションの匂いがします。
イワンは先鋭的な思想家たらんとして、自分の思想と妄想に飲み込まれていきます。
ドラマではヒーロー型ACとして描かれていましたね。
親の期待を先取りして立派に生きるというタイプです。
そして三男アリョーシャ。
人間のクズのような父親にさえ愛され、兄たちからも、子どもたちからも、周りのすべての人から愛される「地上の天使」アリョーシャ。
実は彼が一番典型的なACではないかと、私は思います。
ACという言葉がどのようなプロセスで出来上がったかというときに、言い伝えられているお話があります。
米国で、アルコール依存症が「病気」として治療されるようになった頃、(1970年代でしょうか)、そのアルコール依存の夫を決して見捨てず、あきもせず介抱する妻たちを見て「共依存」という概念が生まれました。
そしてその父母につきそう子どもたちを見てACという概念が生まれてきたのです。
普通、こういう崩壊した家庭の子どもたちは非行に走るのではないかと思われていました。
ところが、予想に反してこういう子どもたちは、皆「いい子」だった。
親の代わりに大人の役目をしてしまっていたのです。
なぜなのでしょう。つまり、周囲の家庭環境が騒がしく、大人たちが苦悩したり荒れたりしているとき、子どもたちは自分の欲望よりも、家庭の平和、親の安全や和解に注意を払わざるを得ない。
そうしなければ、自分の生存が危うかったからです。
つまり彼らは自分の感情や欲望を見失っているから、周囲に過剰適応できて、「いい子」でいるのです。
だとしたら、誰からも愛され、誰の心情をも思いやれるアリョーシャは、こういうタイプのACなのかもしれません。
しかし、未完に終わったこの物語の書かれざる結末は、アリョーシャを現代の「黒いキリスト」にして、皇帝暗殺を企てる首謀者として描くことだったらしいのです。
「社会正義」のために自分を犠牲にするというのも、自己の欲望を見失った人がたどる道程なのかもしれません。
おまけに、スメルジャコフです。
彼はカラマーゾフの隠された息子。
動物虐待をしたという描写も原作にはあり、神戸の少年Aを彷彿とさせます。
いろいろ言いましたが、「カラマーゾフの兄弟」を再読して、私には一番面白かったのは「大審問官」の部分ではなく、イワンが妄想のなかで悪魔と対話をするところです。
流行遅れで擦り切れた背広を着たジェントルマンとして描かれるこの悪魔とイワンとの対話シーン。
イワンはさかんに「君は俺だ!」と罵り、悪魔は今まで訪問してきた地上の様々な場面を語ります。
このくだりは、なぜか私に「Sympathy for a Devil」(Rolling Stones)を想起させました。
台詞が似ていますよね。
というわけで、なぜかStones で始まり、Stonesで終わったカラマーゾフ話ですが、名作というのはいろいろな部分をそぎ落としても、やはり名作なのだと感じたことでした。
次回はドストエフスキーの話を。