どうでもいいこと 余話
長く生きていると、過去に起きた一つの出来事について、「あれがなかったら・・・」
「そこで違う事をしていたら・・」と思うことがあります。
現在の視点から見ると、そのときにまるで何か大きな力が働いたかのように感じられることもあります。
私がまだ新米の編集者だったころ、たまたま「森田正馬全集」の制作の仕事の担当になりました。
もちろん私はただの制作で、内容の選択や構成などは、森田療法の先生方が決めるのです。
私はただ、校正したり、本の形にしていくだけです。
この分厚い全集を作っていて、第五巻制作のときの出来事です。
森田療法に詳しい皆さんは、もうご存じと思いますが、この第五巻は森田正馬が退院者や入院者を集め、集団で問答するという、今でいうグループ療法の記録です。
このグループ療法の場を「形外会」と呼び、その記録を弟子たちが速記して、内容がすべて残っているという貴重なものです。
わかりやすく、具体例とともに森田博士の言葉で語られる森田療法は、他のどの論文や単行本をしのぐ深さと広さをもっています。
さて、この巻の校正を終了し、印刷にまわすというときに、上司の編集長が「あっ!」と叫んだのです。
「しまった、この巻のハイキングや余興の記録は全部削除するように言われていたんだっけ」
森田は、自宅で形外会を催すと、必ずそのあとに一緒に食事をとり、余興をするのです。
たまには、郊外へハイキングにでかけ、そのときの形外会も「一回」とカウントされ、記録が残っています。
担当の先生には、その余興の記録がどうでもいいことに思えたのかもしれません。
最初に全部省くように言われ、編集長は作業をしている私にそれを伝え忘れたのです。
その時点ではもう、訂正はきかず、先生に謝り倒して、第五巻は余興の記録を全部収録した形になりました。
「あ~ぁ、まずいことしちゃった」というのがその時の私の感想で、以後五巻の余興の記録を見ると、必ずこの苦々しい感覚がよみがえってきたものです。
ところが、それから長い時間がたち、自分で森田正馬のしたことを本に書くというときに、この余興の記録の意味が、がぜん違って感じられてきたのです。
つまり、森田正馬がなぜこれほど遊んだかということが、大事なことに思えてきたのです。
森田は本当によく遊んだ人です。
形外会のあとには落語家を呼んで、皆で話を聞いたり、ときには自分で踊ったり、かくし芸を披露したりします。
身体が弱いのに、患者さんたちと一緒にハイキングに行ったり、登山をしたり、旅行に行ったりしています。
近所で盆踊りがあると出かけていきます。
自宅で盆踊りの会を開いたりしたこともあります。
後世の人で森田博士を偉大な精神医学者と見る人は、「踊る精神医学者」という森田の姿をあまり認めたくなかったのかもしれません。
どうでもよいこととして、無視したかった部分もあったのかもしれません。
けれど、これはとても大事なことだったのだと思います。
人生の充実は、仕事や業績や勉強だけではない。
森田療法はそんなことだけ強調している精神療法ではないのです。
(もちろん遊びだけを強調しているものでもありません)
人生の営為のすべてをそんなふうに価値判断したり、区別したりしていません。
「人もし各々その職業に興味を有して、工夫し、研究し、発展して、これを楽しんでいくならば、その仕事は常に遊び事である。小児の活動は、常に遊び事であって、しかもそれ自身のためには、最も大切なる仕事である」
(森田正馬 「恋愛の心理」より)
もし、全集五巻を制作するとき、私がミスをせず、どうでもいいこととして余興の全部を削除してしまったら、森田博士がグループでこんなに遊んだことは、後世の記録に残らなかったでしょう。
この偶然を思うと、不思議な感慨を覚えるこの頃です。
今回は恥ずかしながら自分の本の宣伝です。
ずっと以前に書いた本ですが、この本の「遊びをせんとや生まれけん」の章のなかに、森田博士と遊びのことが書いてあります。
- 関連記事
-
- 固い価値観から事実のなかへ
- どうでもいいこと 余話
- 動的平衡