固い価値観から事実のなかへ
森田博士と遊びのことを書いていたときに、第五巻に出ているエピソードを思い出しました。
原著から抜粋してみましょう。(第59回形外会)
「ここに入院している人は、初めのうちは、どうしても修養ということにとらわれる。金物屋に行っても、少し待つ間があれば、雑誌などを読んでいる。「寸陰を惜しむ」という教えの文句にとらわれている。僕はそんなときには、常に丁度展覧会を見るように、何か面白い有効のものはありはせぬかと、陳列の品物を見回しているのである」
「ひどいのになると、入院中の人で、熱海形外会のときに、十国峠へドライブしたときに、自動車のなかで本を読んでいたのがあった。景色を眺め道中を楽しむということとは無関係である」
読んだときには思わず笑ってしまいました。
神経質の人だったら、なんだかありそうな光景。
森田はこう結びます。
「「そういうふうでなければ偉い人にはなれない」と考えている人が、世の中には多いようだけれど、僕は決してそうとは思わないのである。周囲に適応するような人が、よく独創的で・適切な問題を発見して、新機軸を立てるのではないかと考える」
ここまで読むと「周囲に適応しよう」みたいなことで終わってしまうのですが、この文章の前段に、自分が女中さんの下駄の鼻緒を直したことを、いろいろ批判されたことに対して、森田はこんなことを言っています。
「女中のことをしてやることを下品と思うような貴族根性は、僕などにはよほど劣等の思想のように感じられる」
ここで森田博士の思考の流れを、我流で解釈してみましょう。
金物屋で読書をしている人、ドライブ中にも読書をする人、そういう人たちの頭のなかにあるのは、勉強や知識のほうが買い物より大事、遊びより大事、という確固とした価値観です。
神経質の症状の背後にあるのは、こういう固い価値観、ランクづけです。
世の中のことごとくをランクづけしている感覚があります。
行動でいえば、掃除、家事などより社会に出てお金を稼ぐほうがランクが上とか。勉強のほうがスポーツより上、仕事のほうが遊びより上とか(価値観ですから逆の場合もあります)。
一般的な地位役職、社会的な評価によるランクづけに始まって、職種のランクづけ、学歴のランクづけ。
そして人のなかに入ると、他の人の知識の程度とか、能力、人気、話術、容姿のランクづけ。
(正確に言うと、自分より上か下かを気にしているのではないかと思います)
こんなことばかり考えているのですから、心が休まるヒマがありません。
こういう見方をしていると、世の中はバトルフィールドになってしまいますよね。
もちろん、たいていの人もこういうことには着目します。
でも、それはあくまで目安として認識するだけではないのかと思います。
そういうものを目安として、人に対することであれば、つきあううちに相手の「事実」に触れて、事実にもとづいた見方を獲得していくのだと思うのです。
ところが、このランク付け価値観のまま観念の世界に走ると、行動が「周囲と適応できないもの」になってくるのではないでしょうか。
ドライブ中に読書をした人も、「時間を無駄にせずに勉強しているのに、なぜ注意されなければならない」と思ったかもしれません。
グループのなかでいかにうまく話すかが価値の人が、豊富な話題を提供して、面白おかしく話したと思っても、それが全く場違いなものだったりする。
面白く雑談したはずなのに、なぜ皆が白ける・・・ということもあるでしょう。
大事なのは、周囲の事実を見ること。そして調和していくこと。
皆が遊んでいるなら、自分がつまらなくても、一緒にやってみるだけでもいい。
「そんなつまらないこと」と思っても、皆が笑っているなら、少なくともしかめっ面はしない。
観念の世界から、事実の世界へ。
これも森田療法の大事な方向性です。
そして森田博士は、女中さんの下駄を直したり、皆の前でかくし芸をしたり、踊ったり、一緒に遊んだりすることで、神経質者の固い価値観を崩そうとしていたように思うのです。

原著から抜粋してみましょう。(第59回形外会)
「ここに入院している人は、初めのうちは、どうしても修養ということにとらわれる。金物屋に行っても、少し待つ間があれば、雑誌などを読んでいる。「寸陰を惜しむ」という教えの文句にとらわれている。僕はそんなときには、常に丁度展覧会を見るように、何か面白い有効のものはありはせぬかと、陳列の品物を見回しているのである」
「ひどいのになると、入院中の人で、熱海形外会のときに、十国峠へドライブしたときに、自動車のなかで本を読んでいたのがあった。景色を眺め道中を楽しむということとは無関係である」
読んだときには思わず笑ってしまいました。
神経質の人だったら、なんだかありそうな光景。
森田はこう結びます。
「「そういうふうでなければ偉い人にはなれない」と考えている人が、世の中には多いようだけれど、僕は決してそうとは思わないのである。周囲に適応するような人が、よく独創的で・適切な問題を発見して、新機軸を立てるのではないかと考える」
ここまで読むと「周囲に適応しよう」みたいなことで終わってしまうのですが、この文章の前段に、自分が女中さんの下駄の鼻緒を直したことを、いろいろ批判されたことに対して、森田はこんなことを言っています。
「女中のことをしてやることを下品と思うような貴族根性は、僕などにはよほど劣等の思想のように感じられる」
ここで森田博士の思考の流れを、我流で解釈してみましょう。
金物屋で読書をしている人、ドライブ中にも読書をする人、そういう人たちの頭のなかにあるのは、勉強や知識のほうが買い物より大事、遊びより大事、という確固とした価値観です。
神経質の症状の背後にあるのは、こういう固い価値観、ランクづけです。
世の中のことごとくをランクづけしている感覚があります。
行動でいえば、掃除、家事などより社会に出てお金を稼ぐほうがランクが上とか。勉強のほうがスポーツより上、仕事のほうが遊びより上とか(価値観ですから逆の場合もあります)。
一般的な地位役職、社会的な評価によるランクづけに始まって、職種のランクづけ、学歴のランクづけ。
そして人のなかに入ると、他の人の知識の程度とか、能力、人気、話術、容姿のランクづけ。
(正確に言うと、自分より上か下かを気にしているのではないかと思います)
こんなことばかり考えているのですから、心が休まるヒマがありません。
こういう見方をしていると、世の中はバトルフィールドになってしまいますよね。
もちろん、たいていの人もこういうことには着目します。
でも、それはあくまで目安として認識するだけではないのかと思います。
そういうものを目安として、人に対することであれば、つきあううちに相手の「事実」に触れて、事実にもとづいた見方を獲得していくのだと思うのです。
ところが、このランク付け価値観のまま観念の世界に走ると、行動が「周囲と適応できないもの」になってくるのではないでしょうか。
ドライブ中に読書をした人も、「時間を無駄にせずに勉強しているのに、なぜ注意されなければならない」と思ったかもしれません。
グループのなかでいかにうまく話すかが価値の人が、豊富な話題を提供して、面白おかしく話したと思っても、それが全く場違いなものだったりする。
面白く雑談したはずなのに、なぜ皆が白ける・・・ということもあるでしょう。
大事なのは、周囲の事実を見ること。そして調和していくこと。
皆が遊んでいるなら、自分がつまらなくても、一緒にやってみるだけでもいい。
「そんなつまらないこと」と思っても、皆が笑っているなら、少なくともしかめっ面はしない。
観念の世界から、事実の世界へ。
これも森田療法の大事な方向性です。
そして森田博士は、女中さんの下駄を直したり、皆の前でかくし芸をしたり、踊ったり、一緒に遊んだりすることで、神経質者の固い価値観を崩そうとしていたように思うのです。

- 関連記事
-
- 神経症の基礎の基礎
- 固い価値観から事実のなかへ
- どうでもいいこと 余話