ボチェッリを聴きながら、悲しみについて考える
何ヶ月か前、あるオムニバスCDを聴いていたときのことです。
私はパソコン仕事をするときに、こういうのをよくかけます。
で、そのなかに一曲、「あ、オペラの人だな」と感じる男性の歌声がありました。
実は、私はオペラは食わず嫌いです。
オペラ的な声が聞こえてくると、「わかった。立派な声なのはわかった。でももういいよ!」という感じになってくるのです。
それで、私は最初、その曲を聞き流しました。
「あ、オペラの人ね、テノールね」という感覚でした。
ところがそのうち、仕事をしていて、その声が流れてくると、なぜか手がとまってしまうようになったのです。
嫌いなはずのオペラの声であるにも関わらず、どうしてもその声に耳が持っていかれるのです。
不思議な声でした。
声量はあるけれど、男声としてはどこか線が細く優しい。
シナトラやエルビスのように「甘い」とか「セクシー」とか表現されるような声ではありません。
むしろそういう感覚はまったくなく、若木のように伸びやかで清々しいのです。
「無垢」という言葉さえ想起させる声でした。
それでいて、何を歌っているかわからないのに(イタリア語なので)その声は私の中の情感を、どうしようもなくかき回すのです。
「なんだろう、これは?」
「アンチオペラ」の固定観念で逆らっていた私も、ついにその歌手の名前を見ました。
「アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli)」と読めました。
もう既に世界で数千万枚のCDを売り上げている「奇跡のテノール」を、私はその時はじめて知ったのでした。
そしてネットで調べ始め、あるところに来て、検索の手がとまってしまいました。
ボチェッリは全盲のかただったのですね。
彼はイタリアのトスカーナで生まれました。
音楽が好きな少年でしたが、生まれつきの弱視で、12歳のとき、サッカーボールが頭にあたり、脳内出血で完全に失明してしまいます。
その後、親の勧めでイタリアの名門、ピサ大学に進学し法学博士号を得て、弁護士の道に進みましたが、音楽への夢を諦めきれず、声楽のレッスンを始め、見出され、歌手として自立していきます。
グラミー賞はじめ数々の音楽賞を受け、今や世界のトップアーティストの一人。
あの有名なサラ・ブライトマンの「Time to say goodbye」の原曲は、この人の歌った「Con Te Partiro」だということも知りました。
「9.11同時多発テロ」のとき、テロの後48日目に開催された遺族のための追悼式のとき、ボチェッリはイタリアから駆けつけ、硝煙くすぶるグランド・ゼロで「アヴェ・マリア」を歌ったのだそうです。
その瞬間、会場は水を打ったように静まり返り、遺族たちはいっせいに涙したそうです。
考えるだに、すごい光景です。
こんなことを知ってから、わたしはボチェッリを聴き始めました。
カンツォーネ、ポピュラー、アリアなど様々なジャンルを歌っている人ですが、聴いていると、言葉はわからないのに、時として泣けてくる。
表現力の凄さということもあるでしょうが、彼の声自体に、哀感が内包されているような気がするのです。
もちろん彼は前向きな人ですし、ポジティブな生き方をメッセージとして歌で伝えたいという人ですので、これは、私の勝手な思い入れかもしれません。
まぁ、思い入れであろうと、どんなふうに感じるかは私の自由。
彼の声から、どうしても私は「悲しみ」ということを想起してしまうのです。
「悲しみ」という言葉を聞くと、後ずさってしまう人がいるかもしれません。
「悲しみ」というと抵抗感がある、「怒り」のほうが、表現しやすいという人が多いのでしょうね。
「怒り」は、どこかパワーや強さと通じるところがある。
「悲しみ」は、弱さに通じるような感覚があり、悲しむことを親から禁じられたり、自分で規制してきた人もいるでしょう。
しかし、もしかしたら、あなたの「怒り」の向こうにあるのは「悲しみ」かもしれない。
たとえば、もう失ってしまい、二度と取り返せないものへの悲しみ。
今生では、決して得ることのできないものを求めてしまう悲しみ。
この人生で背負っていかなくてはならないものへの悲しみ。
誰にでもそんな悲しみはあると思います。
時には、悲しむことを怖れず、それを自己憐憫などと思わず、ひたってみてもいい。
そんなとき、私がボチェッリを聴くように、自分の好きな音楽やドラマ、書物、映画に感情を仮託して、悲しんでもいい。
悲しみが悲しみを癒す。
そんなひとときが、きっとあると思うのです。
できれば目を閉じて聴いてほしい・・


私はパソコン仕事をするときに、こういうのをよくかけます。
で、そのなかに一曲、「あ、オペラの人だな」と感じる男性の歌声がありました。
実は、私はオペラは食わず嫌いです。
オペラ的な声が聞こえてくると、「わかった。立派な声なのはわかった。でももういいよ!」という感じになってくるのです。
それで、私は最初、その曲を聞き流しました。
「あ、オペラの人ね、テノールね」という感覚でした。
ところがそのうち、仕事をしていて、その声が流れてくると、なぜか手がとまってしまうようになったのです。
嫌いなはずのオペラの声であるにも関わらず、どうしてもその声に耳が持っていかれるのです。
不思議な声でした。
声量はあるけれど、男声としてはどこか線が細く優しい。
シナトラやエルビスのように「甘い」とか「セクシー」とか表現されるような声ではありません。
むしろそういう感覚はまったくなく、若木のように伸びやかで清々しいのです。
「無垢」という言葉さえ想起させる声でした。
それでいて、何を歌っているかわからないのに(イタリア語なので)その声は私の中の情感を、どうしようもなくかき回すのです。
「なんだろう、これは?」
「アンチオペラ」の固定観念で逆らっていた私も、ついにその歌手の名前を見ました。
「アンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli)」と読めました。
もう既に世界で数千万枚のCDを売り上げている「奇跡のテノール」を、私はその時はじめて知ったのでした。
そしてネットで調べ始め、あるところに来て、検索の手がとまってしまいました。
ボチェッリは全盲のかただったのですね。
彼はイタリアのトスカーナで生まれました。
音楽が好きな少年でしたが、生まれつきの弱視で、12歳のとき、サッカーボールが頭にあたり、脳内出血で完全に失明してしまいます。
その後、親の勧めでイタリアの名門、ピサ大学に進学し法学博士号を得て、弁護士の道に進みましたが、音楽への夢を諦めきれず、声楽のレッスンを始め、見出され、歌手として自立していきます。
グラミー賞はじめ数々の音楽賞を受け、今や世界のトップアーティストの一人。
あの有名なサラ・ブライトマンの「Time to say goodbye」の原曲は、この人の歌った「Con Te Partiro」だということも知りました。
「9.11同時多発テロ」のとき、テロの後48日目に開催された遺族のための追悼式のとき、ボチェッリはイタリアから駆けつけ、硝煙くすぶるグランド・ゼロで「アヴェ・マリア」を歌ったのだそうです。
その瞬間、会場は水を打ったように静まり返り、遺族たちはいっせいに涙したそうです。
考えるだに、すごい光景です。
こんなことを知ってから、わたしはボチェッリを聴き始めました。
カンツォーネ、ポピュラー、アリアなど様々なジャンルを歌っている人ですが、聴いていると、言葉はわからないのに、時として泣けてくる。
表現力の凄さということもあるでしょうが、彼の声自体に、哀感が内包されているような気がするのです。
もちろん彼は前向きな人ですし、ポジティブな生き方をメッセージとして歌で伝えたいという人ですので、これは、私の勝手な思い入れかもしれません。
まぁ、思い入れであろうと、どんなふうに感じるかは私の自由。
彼の声から、どうしても私は「悲しみ」ということを想起してしまうのです。
「悲しみ」という言葉を聞くと、後ずさってしまう人がいるかもしれません。
「悲しみ」というと抵抗感がある、「怒り」のほうが、表現しやすいという人が多いのでしょうね。
「怒り」は、どこかパワーや強さと通じるところがある。
「悲しみ」は、弱さに通じるような感覚があり、悲しむことを親から禁じられたり、自分で規制してきた人もいるでしょう。
しかし、もしかしたら、あなたの「怒り」の向こうにあるのは「悲しみ」かもしれない。
たとえば、もう失ってしまい、二度と取り返せないものへの悲しみ。
今生では、決して得ることのできないものを求めてしまう悲しみ。
この人生で背負っていかなくてはならないものへの悲しみ。
誰にでもそんな悲しみはあると思います。
時には、悲しむことを怖れず、それを自己憐憫などと思わず、ひたってみてもいい。
そんなとき、私がボチェッリを聴くように、自分の好きな音楽やドラマ、書物、映画に感情を仮託して、悲しんでもいい。
悲しみが悲しみを癒す。
そんなひとときが、きっとあると思うのです。
できれば目を閉じて聴いてほしい・・
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