神経症の基礎の基礎
本日は、「神経症とは何か?」の基礎の基礎。
神経症というのは曖昧な言葉ですが、現在では「不安障害」と呼ばれているものですね。
社会不安障害、強迫性障害、身体表現性障害、パニック障害などです。
どの森田療法の本にも、この症状の成り立ちのところにこう書いてあります。
「誰にでもある感覚を異常と思い、それを取り除こうとすることから形成される」
本当に基礎の基礎なのですが、これも字面だけ読んで、実感として理解していない人が多いかなと思うのです。
たとえば、ある神経症のかたが「人前であがってしまって・・」と言ったとき、「私もあがりますよ」というと、こういう反応が返ってきます。
「えっ、あなたでもあがるんですか?!」
あがることだけでなく、病気が気になるとか、◯◯が心配で・・・とか、おっしゃるときに「私も病気はこわいですよ」というと、同じように「あなたでも病気がこわいんですか!」という反応が返ってきます。
あんまり何回も(何百回も)こういうことがあると、「私は人間と思われているんだろうか」と感じてしまいます。
こういう反応のあとに、こうおっしゃる人もいます。
「じゃあ、あなたも神経症なんですね」
人前で上がったり、赤くなったり、病気が怖かったりする人が神経症なら、人類は全員神経症です。
私は、もちろん上がって声が震えたり、手が震えることはあります。
しかし、そのとき少し恥ずかしい感覚はありますが、それを次の日まで恥ずかしいと感じることはありません。
何しろ、根性がなく、忘れっぽく、諦めの早いタチなので。
しかし、こんなふうに、「えっ、あなたも!」という反応を聞くと、逆に言えばこのかたに神経症傾向があることが、よくわかります。
人前で上がることが、自分だけのこと、他の人は人前では堂々と話すことができるという観念があるから、それを取り除こうとして精神交互作用の悪循環に巻き込まれていくわけですね。
逆に言えば、自分以外の皆は緊張を感じることはないと思っているので、そういう緊張しない状態になれると思っている。
神経症の人の苦しみのベースにあるのは、人間なら誰でも(時には)感じる普通の感覚です。
それは、自然な感覚なのです。
それが誰にでもある感覚だとわかっていたら、それほど焦る必要もないわけです。
(もちろん、感じ方には人によって程度の多少はありますし、その人の価値観によって、強く感じる感覚とか感じない感覚はあります)
このように、自分だけが特別緊張して苦しい、自分だけがこんなに怖い等・・・と感じるのを、森田療法では「差別観」と言います。
自分に比べて、他の人はいろいろな点で恵まれていると思い込んでいるのです。
そして、他の人も緊張するときはする、病気は怖い、カギを締めたか不安になることはある、心臓がドキドキすることはある・・・等ということが自分の実感としてわかってくると、自分を特別視する気持ちが薄れてきます。
この自己特別視(自分が特別に不幸だ)という感覚が薄れ、他人にもそれぞれ苦しみがあるとわかり、共感できるようになる状態、これを「平等観」と言います。
そんな「平等観」ができてきたら、もう「症状」(主観にとらわれた状態)は、どこかに行っていると思います。
つまり基礎の基礎、自分の恐怖や不安は誰にでもある感覚だということがわかり、他人の苦しみにも共感できるようになったら、ある意味森田療法は卒業なのです。
不思議ですね。
基礎がわかれば卒業!
森田療法というのは、本当に不思議な治療法です。
でも、ここでまたお決まりの質問がくるような気がします。
「では、平等観を得るにはどうしたらいいんですか?」
「どうしたらいいんですか?」
この質問の仕方も神経質の人に特徴的です。
最短、最速、最安値の方法を目指す。
この傾向が、症状形成に一役かっているような気もします。
森田正馬は、この神経質の傾向を「近ごすい」(ちかごすい)といいました。
高知の方言だそうです。
近ごすいことをせず、答えは自分で見つけましょう。
どの森田療法の解説書にも答えは書いてあると思います。
あるいは、自分でやってみましょう。
自分で考え、気付きましょう。
そして、つくづくと自分の性格傾向や差別観を自覚しましょう。
何もしなくても、心底からの自覚さえあれば、変化は向こうからやってきます。

神経症というのは曖昧な言葉ですが、現在では「不安障害」と呼ばれているものですね。
社会不安障害、強迫性障害、身体表現性障害、パニック障害などです。
どの森田療法の本にも、この症状の成り立ちのところにこう書いてあります。
「誰にでもある感覚を異常と思い、それを取り除こうとすることから形成される」
本当に基礎の基礎なのですが、これも字面だけ読んで、実感として理解していない人が多いかなと思うのです。
たとえば、ある神経症のかたが「人前であがってしまって・・」と言ったとき、「私もあがりますよ」というと、こういう反応が返ってきます。
「えっ、あなたでもあがるんですか?!」
あがることだけでなく、病気が気になるとか、◯◯が心配で・・・とか、おっしゃるときに「私も病気はこわいですよ」というと、同じように「あなたでも病気がこわいんですか!」という反応が返ってきます。
あんまり何回も(何百回も)こういうことがあると、「私は人間と思われているんだろうか」と感じてしまいます。
こういう反応のあとに、こうおっしゃる人もいます。
「じゃあ、あなたも神経症なんですね」
人前で上がったり、赤くなったり、病気が怖かったりする人が神経症なら、人類は全員神経症です。
私は、もちろん上がって声が震えたり、手が震えることはあります。
しかし、そのとき少し恥ずかしい感覚はありますが、それを次の日まで恥ずかしいと感じることはありません。
何しろ、根性がなく、忘れっぽく、諦めの早いタチなので。
しかし、こんなふうに、「えっ、あなたも!」という反応を聞くと、逆に言えばこのかたに神経症傾向があることが、よくわかります。
人前で上がることが、自分だけのこと、他の人は人前では堂々と話すことができるという観念があるから、それを取り除こうとして精神交互作用の悪循環に巻き込まれていくわけですね。
逆に言えば、自分以外の皆は緊張を感じることはないと思っているので、そういう緊張しない状態になれると思っている。
神経症の人の苦しみのベースにあるのは、人間なら誰でも(時には)感じる普通の感覚です。
それは、自然な感覚なのです。
それが誰にでもある感覚だとわかっていたら、それほど焦る必要もないわけです。
(もちろん、感じ方には人によって程度の多少はありますし、その人の価値観によって、強く感じる感覚とか感じない感覚はあります)
このように、自分だけが特別緊張して苦しい、自分だけがこんなに怖い等・・・と感じるのを、森田療法では「差別観」と言います。
自分に比べて、他の人はいろいろな点で恵まれていると思い込んでいるのです。
そして、他の人も緊張するときはする、病気は怖い、カギを締めたか不安になることはある、心臓がドキドキすることはある・・・等ということが自分の実感としてわかってくると、自分を特別視する気持ちが薄れてきます。
この自己特別視(自分が特別に不幸だ)という感覚が薄れ、他人にもそれぞれ苦しみがあるとわかり、共感できるようになる状態、これを「平等観」と言います。
そんな「平等観」ができてきたら、もう「症状」(主観にとらわれた状態)は、どこかに行っていると思います。
つまり基礎の基礎、自分の恐怖や不安は誰にでもある感覚だということがわかり、他人の苦しみにも共感できるようになったら、ある意味森田療法は卒業なのです。
不思議ですね。
基礎がわかれば卒業!
森田療法というのは、本当に不思議な治療法です。
でも、ここでまたお決まりの質問がくるような気がします。
「では、平等観を得るにはどうしたらいいんですか?」
「どうしたらいいんですか?」
この質問の仕方も神経質の人に特徴的です。
最短、最速、最安値の方法を目指す。
この傾向が、症状形成に一役かっているような気もします。
森田正馬は、この神経質の傾向を「近ごすい」(ちかごすい)といいました。
高知の方言だそうです。
近ごすいことをせず、答えは自分で見つけましょう。
どの森田療法の解説書にも答えは書いてあると思います。
あるいは、自分でやってみましょう。
自分で考え、気付きましょう。
そして、つくづくと自分の性格傾向や差別観を自覚しましょう。
何もしなくても、心底からの自覚さえあれば、変化は向こうからやってきます。

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