実朝の歌 その1
台風一過で、今、東京の空にも月が美しく映えています。
実は今日9月17日は、新暦に直すと実朝の誕生日のようで、それを記念してブログの続きを少し書きます。
実朝の歌とはどんなものなのか、表現してみたいと思いますが、実は私は和歌に関しては、まったくの素人。
和歌を詠んだこともなければ、教わったこともない。
ただ、限られた数の和歌を読んだことがあるだけで、専門の方から見たら、間違いも多いと思います。
素人は素人の範囲でしかものは言えませんが、独断と偏見を楽しみつつ・・・
おほ海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも
(大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも)
実朝の歌で一番有名なのは、これでしょう。
国語の教科書にもよくとりあげられる和歌。
そのときにはどんな解説がついていたでしょうか。
雄大な荒海の情景、スケールの大きな男性的な歌、そんなふうに解説されていたかもしれません。
確かにそうです。スケールが大きい。
この31文字の歌に含まれる世界の大きさは、他に類を見ません。
このなかには、瞬間のうちに変化していく荒れた波の様相があり、その音があり響きがあり、動きがあります。
視覚的には、まるで映像を見るように動いており、聴覚的にはただの音だけでなく、肌身に迫るような轟きを感じさせます。
そして、むろんそれだけではありません。
この「割れて砕けて裂けて散るかも」という言葉に秘めた実朝の思いがあります。
実朝は、若くしていながら「無常観」にとりつかれた人でした。
ものごとはとどまることなく変化し、生起し、そして滅んでゆくという「無常観」です。
一瞬、壮大な形を結んだこの波は、次の瞬間には悲鳴を上げるように崩れ落ち、形のない「無」へとなだれこんでゆく。
この歌は、散ってしまった波の痕跡もとどめず、また静けさが戻る海の面まで読み込んでいるのかもしれません。
すべては、滅んでいく・・・この大波の一瞬にすら、実朝ははかなさ、無常を見たのではないかと思うのです。
和歌というものは、本来そういうものらしいのですが、風景を詠んだ歌のなかには、詠み人の情感が表現されている。
何の思いもなく読んでしまえば、ただのつまらぬ風景描写。
でもそこにいかに自分の情感や思いをこめるかが歌人の腕の見せ所なのでしょう。
そういうことにかけては、実朝は実に達者だったと思います。
何しろ、藤原定家が歌のお師匠さんです。結構な技巧派です。
どちらかというと前衛的といえるほどだったのではないか、だから実朝は後世の歌人に理解されず、評価が二転三転したのではないかと思います。
空や海うみや空とも見えわかぬ霞も波もたちみちにつつ
うば玉のやみのくらきにあま雲のやへ雲がくれ雁ぞ鳴くなる
これらの歌は決して美しい情景を歌ったものではありません。
上は、ただ一面乳白色の世界、下はただ闇の世界。
それも単色ではありません。なにか二重三重に重ね覆われているような分厚い白の世界、分厚い暗闇の世界です。
ここにあるのは、実朝の閉塞感ではないでしょうか。
運命に閉じ込められ、視界もさえぎられ、行くあてもない。
そして暗闇のなかで雁が泣きます。それは闇のなかに迷ってしまった雁の悲鳴なのでしょうか。
こんなふうに実朝は自分を語ります。
今の私たちには、本歌どりの技法(古歌から言葉を借りてきて、歌の世界をふくらませる)などは、まったくわかりません。
しかし、そういう古い決まり事が理解できなくてもなお、詠んだ人の心情が伝わってくる。
優れた作品とはそういうものなのだと思います。
ちょうど、フランス語が読めなくても、翻訳でランボウの詩の美しさが十分伝わってくるのと同じかもしれません。
次のブログでは実朝の心象風景について書きます。
実は今日9月17日は、新暦に直すと実朝の誕生日のようで、それを記念してブログの続きを少し書きます。
実朝の歌とはどんなものなのか、表現してみたいと思いますが、実は私は和歌に関しては、まったくの素人。
和歌を詠んだこともなければ、教わったこともない。
ただ、限られた数の和歌を読んだことがあるだけで、専門の方から見たら、間違いも多いと思います。
素人は素人の範囲でしかものは言えませんが、独断と偏見を楽しみつつ・・・
おほ海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも
(大海の磯もとどろに寄する波割れて砕けて裂けて散るかも)
実朝の歌で一番有名なのは、これでしょう。
国語の教科書にもよくとりあげられる和歌。
そのときにはどんな解説がついていたでしょうか。
雄大な荒海の情景、スケールの大きな男性的な歌、そんなふうに解説されていたかもしれません。
確かにそうです。スケールが大きい。
この31文字の歌に含まれる世界の大きさは、他に類を見ません。
このなかには、瞬間のうちに変化していく荒れた波の様相があり、その音があり響きがあり、動きがあります。
視覚的には、まるで映像を見るように動いており、聴覚的にはただの音だけでなく、肌身に迫るような轟きを感じさせます。
そして、むろんそれだけではありません。
この「割れて砕けて裂けて散るかも」という言葉に秘めた実朝の思いがあります。
実朝は、若くしていながら「無常観」にとりつかれた人でした。
ものごとはとどまることなく変化し、生起し、そして滅んでゆくという「無常観」です。
一瞬、壮大な形を結んだこの波は、次の瞬間には悲鳴を上げるように崩れ落ち、形のない「無」へとなだれこんでゆく。
この歌は、散ってしまった波の痕跡もとどめず、また静けさが戻る海の面まで読み込んでいるのかもしれません。
すべては、滅んでいく・・・この大波の一瞬にすら、実朝ははかなさ、無常を見たのではないかと思うのです。
和歌というものは、本来そういうものらしいのですが、風景を詠んだ歌のなかには、詠み人の情感が表現されている。
何の思いもなく読んでしまえば、ただのつまらぬ風景描写。
でもそこにいかに自分の情感や思いをこめるかが歌人の腕の見せ所なのでしょう。
そういうことにかけては、実朝は実に達者だったと思います。
何しろ、藤原定家が歌のお師匠さんです。結構な技巧派です。
どちらかというと前衛的といえるほどだったのではないか、だから実朝は後世の歌人に理解されず、評価が二転三転したのではないかと思います。
空や海うみや空とも見えわかぬ霞も波もたちみちにつつ
うば玉のやみのくらきにあま雲のやへ雲がくれ雁ぞ鳴くなる
これらの歌は決して美しい情景を歌ったものではありません。
上は、ただ一面乳白色の世界、下はただ闇の世界。
それも単色ではありません。なにか二重三重に重ね覆われているような分厚い白の世界、分厚い暗闇の世界です。
ここにあるのは、実朝の閉塞感ではないでしょうか。
運命に閉じ込められ、視界もさえぎられ、行くあてもない。
そして暗闇のなかで雁が泣きます。それは闇のなかに迷ってしまった雁の悲鳴なのでしょうか。
こんなふうに実朝は自分を語ります。
今の私たちには、本歌どりの技法(古歌から言葉を借りてきて、歌の世界をふくらませる)などは、まったくわかりません。
しかし、そういう古い決まり事が理解できなくてもなお、詠んだ人の心情が伝わってくる。
優れた作品とはそういうものなのだと思います。
ちょうど、フランス語が読めなくても、翻訳でランボウの詩の美しさが十分伝わってくるのと同じかもしれません。
次のブログでは実朝の心象風景について書きます。