他人の評価

ブログをしばらくご無沙汰してしまいました。
春は確定申告があり、森田ワークの準備もあり、ブログへ戻ってくる余裕がありませんでした。

さて、今回は単なるボヤキをひとつ。

冬季オリンピック、私はほとんど何も見ていなかったのですが、その時期のネットニュースでかなり違和感を覚えることがありました。

「海外からも絶賛」という類の表現が異様に多い。

別に素晴らしいものは素晴らしいので、それが海外からどう評価されようがいいのではないかと思うのですが、外国からの評価があると、それがお墨付きになるという感覚。

私はテレビもあまりつけないのですが、そういう類の番組がたくさんありそうです。
なかには外国の人の賛辞を引き出すような質問のしかたをしているものもあり、そういうのを押しつけがましいと感じるのは私だけでしょうか?
どうせ返事はお世辞よ、と思ってしまう。

小さな島国だから仕方ないのかなと思いますけれど・・・。
他の国もそうなんだろうか?
もちろん、自分の国の文化が評価されるのは「うれしい」、これは当然です。
でもなんだか、他の国にも評価してほしいという意図が過剰な気がする。

それでは他国の文化に興味を持ち、尊重しているかというと、ここらへんは希薄な気もする。


そういうテレビやメディアだけでなく、日本では「海外から評価されると絶対」みたいな価値観があるようです。
もともと自国にあったものでさえ、自分たちで認めるよりも、海外からの評価によって認めるというような・・・

自信がないんでしょうか。

確かに、自分に自然な自信のない人は、外からの評価によってやっと自尊心を保つようなところがありますね。

学歴、地位、役職にこだわる社会人、外見に異様にこだわる人たち、子どもを自分の延長と考えてお受験競争に投入する親たち。

そういう人たちって、自分がありのままに、自然でいるだけでは心細くて落ち着けないんでしょうか。

外から評価されなくても、でも、いいものはいい。
自分のことについても、周りの物事についても、そういう意識でいられれば楽だろうなと思います。

論があちこちになりましたが・・・。


紅梅

決断は後悔をともなう

10日のピアセミナーを終え、若干気が緩んでいます。
セミナーでは、たくさんのかたがたに来ていただき、ありがとうございました。

このセミナーでは、「東洋的一元論と森田療法」そして、森田療法のなかにある逆説的要素について、お話ししました。

単なる治療法としての森田療法というより、そのもっと深いところにあるもの、言ってみれば究極の森田療法みたいなところを話しましたが、理解がむずかしかったかもしれません。
もっとも頭で理解する世界ではないので、「森田療法にはこんな境地があるんだよ」ということを提示しただけですが・・。

さて、話題を変えましょう。

ちょうどそのセミナーの質問の時間に「選択と決断」についてお尋ねになったかたがいました。

以前にも少し決断について書きました。

自分の意志での決断を迫られる場面は、人生で何度もあります。

受験、就職、転職、結婚、離婚 等々。
どうしていいかわからずに迷い、悩み、悶々とするかたも多いと思います。

ここでひとつ押さえておくべきことは、「後悔のない決断はない」ということです。

決断に過剰に悩む人は、もしかしたら「最上の、非の打ちどころのない、リスクのない」結果を求めているのかもしれません。

ところが、どちらを考えてもリスクはいっぱいある。
リスクの少ない方をと考えても、そもそも何かを変えるための決断であれば、必ずリスクを伴うものです。

そのリスクばかり恐れると「行くも地獄、とどまるも地獄」のような心境に陥りがちです。

そんな心境になってしまうのは、もしかしたら「全部がほしい」からなのかもしれません。

こちらを選べば何かを得られるけれど、失うものもある。あちらを選んでも同じ。
つまり、決断はしたいけれど何も失いたくないのです。

「最良の決断」のようなものがどこかにあると思っている。

わかりやすく単純に言えば、結婚だってそうです。
いいことばかりではありません。
独立した大人として、責任を持ち、二人で生活を営んでいく。
一人でいるより、プライバシーがなく、我慢することも多くなります。

では結婚しないという決断はどうでしょう?
自由ですし、自分のお金は全部自分で使えます。束縛もない。
けれど、孤独感もつきまとう。
老後の自分はどうなるのだろうと不安になる。

どっちの決断でもリスクはあります。
決断に迷う人は、責任をとって大人として我慢するのもイヤ、でも時折感じる孤独もイヤ、将来の孤独死などのことも考えてこわい。

何かを選び、決断をするとき、別にどれをとってもいいのです。
ただ、選んだ結果のリスクをしっかり自分で引き受けさえすればいいのです。

そのリスクを負うのがいやで、何かもっとよい道があるのではないか、それを探し続け、迷い続けて、結局人生が停滞する。
停滞しているその「時間」が一番もったいない気がします。


法隆寺1

法隆寺

生き生きワークのお知らせ

お知らせです。

今年4月から「森田生き生きグループワーク」を開催いたします。

このグループワークは、全8回、4月から6月にかけて、日曜日を利用して行います。

内容は「ものそのものになる」「事実唯真」「純な心」などのキーワードを中心に、ご自身の体験を通して学び、もっと楽に生きる姿勢を体得していくことを目指します。

レクリエーションもまじえ、固定メンバーで、気軽な雰囲気で学べます。

以前の正式なワークをしてからもう10年以上もたちました。
今やらないともうできなくなるかもという、私自身のちょっとした危機感もあり、今年開催することになりました。

一度、ワークの場を体験してみたいとお考えのかた、ぜひお問い合わせください。

詳細は、お茶の水セラピールームのホームページをご参照ください。お茶の水セラピールーム

定員がありますので、締め切ってしまった場合はご容赦ください。




私だけではない

カウンセリングに通っていただいているかたが、時々このブログを読んでの感想やそれをもとに考えたことを語ってくださいます。

ブログには割合一般的なことしか書いていませんので、そのかたの例に沿って考えを進め、私もそのかたも共に深い森田的理解に至ることがあります。

そんなときに、私自身もいろいろな発見をすることがあります。

先日のかたは、ブログを読んで気づいたことがあるとおっしゃいました。
そのかたは「こんなふうに葛藤しているのは、私だけかと思った・・」「皆、自分と同じように葛藤していると、はじめてわかった」と言われたのです。

つまり、他の人の心は、こんな面倒くさい葛藤もなく、きれいに整理されて、すぐ決断ができて、すがすがしいものだと思われていたようです。

確かに「自分だけ特別に劣等だ」というのは、神経症のかた特有の考え方のようです。
こんなことを思っているのは、自分だけ。
こんなにいやなことを感じるのは、自分だけ。
こんなに心がすっきりしないのは、自分だけ。

それが心の中の「葛藤」というものも含め、自分のなかのあらゆることへの批判となって、自分を苦しめるのでしょう。

実は人間の心のなかというのは、それほど大きな差はないのではと思います。

そうでなければ、心理学の理論などできません。
心理学理論というのは、一般的な人間に共通に生じてくるものを法則化したものです。

神経質のかたの性格は、非常に似通っています。
もちろん、まったく同じということはありませんが、神経症になる心のからくりは、共通の性格があったからこそ生じてくるもの。

では神経質の人だけが、特別かというと、そうでもない。
神経質の悩みは、ただ「誰でも共通して感じる感覚」に、過剰に注目してしまったから起こってくることです。
つまり、基盤にある感覚は人類共通のものです。

それを問題視しやすいか、どうか。
ただそれだけのことです。

その根底には、人間のいろいろな性格特徴を「いい、悪い」と価値づけするという考え方があるのかもしれません。

葛藤する人間、優柔不断な人間、すぐ不安になる人間・・・そういう人間は一段下のように思っているのかもしれません。

そしてまた、その価値判断の根底には、自分にとってそういう性格が快か不快か、という感覚的な部分があるのかもしれませんね。



春日大社
春日大社

葛藤こそ大事

先日は、名古屋の一日学習会へ参加させていただきました。
熱気あふれる学習会でした。

「純な心」がテーマでしたが、どなたかが「純な心って、本当はすごく簡単なことなんですね」と言ってくださいました。
実際、「純な心」という概念はまったく難しくないのです。
でも、もしかしたら神経質者のかたが「純な心」に気づくのが難しいのかもしれません。

それはそうと、何人かのかたから、内容が似たお話しをいただきました。

「懇親会のときに、思い切って(私に)話しかけた。それはよかったけれど、話せなかった人に申し訳ない気がした」
「(私に)話したかったけれど、人の目が気になり、そばに行けず残念だった」

神経質のかたというのは(あるいは人間は誰でも)、いつでもいくつかの心が葛藤しているようです。
多分、欲求が多方面にわたっているからでしょう。

たとえば・・
「誰かに話しかけたい」
「でも、他の人もそうしたいと思っているのに、悪いかな」(場を乱したくない、目立たないでいたい)
「他の人がどう思うだろう」(人の目を気にする。いい人でいたい)
「話しかけてうまく言葉が出なかったらどうしよう」(恥をかきたくない)

そうやっていろいろな心が同時にあって、葛藤しているのです。

森田は、このように多くの心が葛藤している人ほど立派な人である、というようなことを言っています。

それはどういう意味でしょう?

もし葛藤のない心なら?

「こうしたい!」と思う心のまま、猪突猛進。周りのことなど目に入らない。人の迷惑も考えられない。
「気まずい」という心のままに、ひたすら引っ込んでいて、自分の欲求には気づけない。
人の目ばかりを気にしていて、身動きできない状態になる。
あるいは、いつも装ったような不自然な自分でいることになる。

森田療法は、欲望を大切にしますが、必ずしも「いつも欲望のままに行動しなさい」などとは言っていないと思います。
同じように「周囲に迷惑がかからないように」などとも言っていません。
そういう教条的な言い方はしないのです。

自分の欲望は大事。
けれど、その欲望を達成するにあたって、心の中に自然に出てくる様々な葛藤も大事。

その葛藤があるから周囲への気配りができることもある。
そうやっていろいろな葛藤のなかで「でも本当は何がしたいか」を感じていく。

その「誰か」と話せなかったことが、ずっと後悔のタネになるなら、その欲望はかなり強いものであるわけです。

それだったら、今回は思い切って話してみよう、という行動を選択してみる。

葛藤しつつ、選択していく。
そしてその選択の責任は自分がとる。

そうやっていつも迷う自分がイヤだ、とおっしゃるかたもいます。
けれど、葛藤して迷い決断していくのが、ある意味、心の普通の働きです。

この葛藤や迷いが不愉快でいやだから、消したいというのは、不可能なこと。

そういう高度で複雑な働きをしている私たちの心が、実は私たちを守ってくれているのです。

奈良の鹿

                          奈良の鹿
プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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