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不在・無言・無視というコントロール

長らくブログをご無沙汰してしまいました。
ただ単に、気持ちがあっちこっち行ってしまって、ブログに向かえなかっただけですが、心配して問い合わせてくださる人もいて、ありがたいことです。

別に病気だったわけでもありませんし、ブログのネタが尽きたわけでもありません。
ただ、時間が空くとその時間にやらなくてはならないことがあり、ブログを書けませんでした。

さて、このところ自分の周囲に起こっていることや、クライエントさんのお話を聞いていると、「不在、無言、無視」ということを攻撃やコントロールの武器にしてくる人がいて、そんなことをされて苦しんでいる人がいるんだと、あらためて認識しました。

きちんと人と向かい合うことが苦手な人は、こういう方法を使うようです。

以前にもブログに書きましたが、子どもが自分の気に入らないことをすると口をきかなくなり、無視する親がいます。
恋人やつれあいなどでも同じです。
自分の気に入らないことをされると「ふん」という感じで無視する。
すると、されたほうは「自分が何か悪いことをしたのか?」と思って、いろいろとわが身を省みて、しなくてもいい反省をします。
機嫌をとったりします。

これは、無視による一種のコントロールです。
相手に罪悪感を抱かせて支配するわけです。

こういうことをされて育った子は、自己肯定感が低くなります。
いつも自分のどこかが悪いと思って育つのです。

不在によるコントロールということもあり得るのだと、この頃気づきました。

人間とは不思議なもので、毎日会っている相手より、たまにしか会えない相手のほうに恋心を感じるようです。
いつでも家にいるつれあいより、不倫相手のほうに夢中になる、などのことです。
たまにしか会えないと、不在の期間に、相手を理想化するということが起こり、相手が素晴らしい人間のように思えてくる。
その人が別に自分に何もしてくれない人でも、会うのが待ち遠しくてたまらないという感覚が起きるものです。

不在によって美しくなり、他人の心に棲みつくことができるわけです。

その点、毎日家にいるつれあいは不利です。
だらしなく昼寝している姿やドジなところを見られるのですから、「恋愛状態」はすぐ醒めます。
「恋愛状態」というのは、多分に幻想を含んだものですから、ずっと恋愛していたい人は会う回数を制限したほうがいいのかもしれません(笑)。
そしてたまにLINEで「会えないけれど、愛してるよ」なんてささやけば、夢多い若い子などにとってはもう完璧な恋人になれます。
もちろん、現実的な人には通じない手ですが。

そうです。つまりこういうややこしい手を使ってくる人には、こちらが現実的になることです。
(現実のなかで)この人は私に何をしてくれただろう?と考えてみる。
一緒に何をしただろうか? そういう現実的な手ごたえを大事にする。

無視してくる人に対しては、自分が悪いわけではない、相手が卑劣な手を使っているだけだと理解することです。

そして、こういう形の攻撃やコントロールがあり得るということを知っておくのも大事なことです。
対人関係で、いわれのない罪悪感に悩まされることが少なくなるかもしれません。


あじさい

ひきこもりと不寛容社会


川崎殺傷事件にはじまる「ひきこもり」と呼称される人たち関連の事件が起き、当ルームにいらっしゃるクライエントさんにも波紋が広がっています。

「私もひきこもりではないかしら?」
「世間の人からそういう目で見られるのではないでしょうか?」
「私もそうなってしまうのでは?」

こういうのは典型的な神経症の人たちの反応です。全然そういう事実もないのに心配するという傾向ですね。
そういう心配はまったく無用な場合が多いのにです。

しかし、もっと深刻なのは、本当にそういう呼称に当てはまってしまう人たちと、その家族のかたがたです。
でもね、これってそんなに「特殊」な問題ではないと思います。
今回の事件が特殊なだけです。

私は昔「一家に一人ひきこもり」の時代だと友人に言ったことがあります。
今は社会生活をしているけれど、以前は学校に行けなかった、社会に出られなかった人はたくさんいると思います。
そういう人を含めて「一家に一人」。
以前はそうだったけれど、今は学校に行っている、会社に行っているという人は多いです。
いつかは自立することだってあるという希望的側面もメディアは伝えてほしいですね。

現代ではなく、昔だってそういう人はいたと思います。
漱石の小説の主人公たちだって、「高等遊民」などと言っているけれど、似たような感じだし。
いっそ「ひきこもり」などというレッテル貼りはやめて「高等遊民」というネーミングにすればいいのではないでしょうか。
そして堂々と遊ぶのです!

しかし、そういう悩みを持つクライエントさんのお話を聞いてつくづく思うのは、働こうと思って入社試験を受けると、時にはかなり屈辱的な目にあうらしいということです。

「この(空白の)一年間は何していたの?」
「なぜこの学校を中退したの?」
「前の会社はなぜやめたの?」

まるで悪い事でもしたかのように根掘り葉掘り訊かれるという話です。
そのあげく不採用になったりしたら、踏んだり蹴ったりです。

ますます自尊感情は低くなり、「私は社会に通用しないのだ」「結局どこに行ってもダメだ」という妙な確信ができあがってしまう。
出ようにも出られない状態になります。

学校に始まって、減点主義の社会が彼らを追い詰めているのだと思います。
この減点主義は、結局、学校や企業の利益のためでしょう。
欠点ばかりに目を向け、それを撲滅しようとする不寛容な社会です。
一元論的に見れば、欠点の裏には美質があるはず。

それを育てようとする人があまりいない。
家庭まで減点主義になってしまったら、気持ちのやり場はどこにもなくなる。
結果、生き延びるのは学歴社会的能力に恵まれた、適応力のある人だけになります。
それ以外の人だって、世の中にはたくさんいます。

今回の一連の騒動で危惧するのは、家にいること自体が「恥」であり「落ちこぼれ」であるというレッテル貼りが進んでいくことです。
それがますます状況を悪化させるでしょう。

大事なのは「一家に一人ひきこもり」の時代と考えて、本人も家族もそれを隠さないことです。
支援している公共の窓口、本人たちのグループもたくさんあります。
そういうところとつながれば、自分たちが一人ではないということがわかります。
それこそが、大きな一歩になるはずです。

6月のバラ

欲望と不安

本日は、森田療法の根幹と言われる「欲望と不安」について。

森田療法を学習するときも、治療を受けるときも、本を読んでも、必ずこの「欲望と不安」という概念に行き当たります。

森田療法というのは一元論ですから、欲望と不安とは同じものであるという見方をします。
ある面から見ると「不安」ですが、また他の面から見ると「欲望」であるということ。
不安があるからには、必ず同じぐらいの大きさの欲望があるはずだということが前提にあります。

つまり欲望に沿って行動していけば、症状(不安)にそれほど煩わされなくなる。
それが森田療法の大きな前提です。

いろいろなかたとカウンセリングでお会いして、良くなっていくかたを見ると、リアルにこれが真実であるとわかります。

ところが、長い間(ときには何十年も)症状に悩んでいると、この「欲望」を全く見失ってしまうことがあります。
こんなときに「欲望」という言葉を使っても、「なんのことやら」という感じになります。
「この苦しみを取り除くことこそが自分の欲望」と思われるのも自然なことかもしれません。
不安という分厚い壁に阻まれて、目の前には何も見えない状態です。

森田正馬が行った入院療法は、そういう人たちを、自発的に自分の欲望に向かっていけるようにするためのものでした。

入院生が行っていたのは、何の変哲もない日常の家事などです。
でも彼らの大半は元気になって退院していきました。

これは私見ですが、彼らはきっと「自分の人生に関わる大きな欲望」を探し当てたわけではないように思うのです。

「欲望」と言葉で言われると、私たちは「〇〇の達成」とか「〇〇の取得」とか、大きな成果をイメージしがちです。
そういうものを探していると、いつまでも「欲望」と言われるものに行き当たらない。
「まだダメ」「まだまだ」という不全感をつのらせていくばかりだと思うのです。

森田がやったことは、その大それた野望を日常の些事へと向け替えることでした。
入院生が行ったことは、部屋の掃除や台所仕事、そんなことばかりです。

しかしそれがイヤイヤながらの仕事ではなく、楽しみになってくる。
もちろん、入院森田ですので「絶対臥褥」があり、その時点で不安障害の人は、「何かをやりたい」という意欲をかきたてられた状態になっています。

そして細かく仕事を指示されるのではなく、自分が仕事を探し、工夫をしていくという状況に置かれる。
その作業は観念的に「欲望を見つける」作業ではなく、自発性、自然な意欲を掘り起こしていく作業でした。

多分彼らは「人生の目的」や「達成すべき欲望」を見つけたわけではなく、自分のなかに自然に湧き上がってくる「何かをやりたい」という気持ち、好奇心、自分発の意欲のようなものを見つけたのだと思います。

そしてそれは、「不安」を持つ人なら誰でも持ち合わせている。
なぜなら、それは不安の裏側にいつも存在していたものだからです。

何かほんの少しの家事、ささいな仕事を達成したときに感じる喜び。
それが誘い水のようになって、次々に何かをしたいという意欲が湧きあがってくる。

大きな目標を達成しなくても、社会的に偉くなどならなくても、目の前のことを工夫してこなしていくことで、毎日は喜びに満ちたものになり得る。

森田正馬の行っていた治療とは、きっとそういうものだったと思うのです。

五月のバラ

苦楽共存

森田正馬の言葉を読んでいて、面白いと思うのは、「~しなさい」というような直接的な指示があまりないことです。

つまり、抽象的なことを言う場合が少ない。
何かをしなさいと言うときは、かなり具体的です。

そして自分の状態などを、たとえにして表現することはあるけれど、「だからこういうふうにしなさい」とは、言わない。

例をあげれば、森田療法では、あまり「感謝」とか「愛」とかの言葉は使わない。
でも、森田正馬自身は、自分の事実として感謝や愛を語っています。
だからと言って、宗教家みたいに「感謝しましょう」とか「人を愛しなさい」とは決して言わない。
そこが非常に面白いところだと、私は思っています。

「私のユートピアは、今度の私の旅行(熊本行)における心境のように、その時どきの現在における感謝と希望との幸福感の体験であるのである。この故に私は病気の時でも、登山の苦痛の時でも、希望の蹉跌した時でも、私のユートピアがあるのである。「苦楽共存」という言葉があるが、苦楽は「あざなえる縄のごとし」ともいい、互いに関連して、取り離すことはできないものである。否それよりも苦楽は、同一事の両面の見方であるといったほうがよいと思う」(全集5巻 168頁)

「苦楽共存」。ここで私は、水が半分入ったコップをイメージしてしまいました。

なぜかわかりませんが、神経症のかたがたは、すごく悲観的ですね。
コップに水が半分あれば、必ずなくなったもう半分の水を惜しむようです。
まだ残っているほうは見ない。

ものごとはすべて「中立」で、その人の見方や扱い方によって悲劇にも幸福にもなる。
ここで森田の言っていることはそういうことです。

どうも症状真っ最中のかたは、残っている水に感謝することをあまりしないようです。

実は本当はすごく恵まれているかもしれない。
これだけ症状が重くても、なんとか生活することができる。
たとえば、ひきこもりの息子がいたとしても、生きていてくれることに「ありがとう」と感じることもあってもいい。
仕事がなくても、いろいろな補助で生きていける。
病気でも、治療のおかげで、まだ活動することができる。

いろいろなところに「まだ残っている水」を探すことができるでしょう。

今までの森田療法ではあまりそんな考え方をしろとは言われません。
「こうしろ」というと、それが「思想の矛盾」や「教条」になってしまうので、その点は非常に注意深くしなくてはいけないのです。

でも森田正馬は、自分のことを話し、自分の事実をひとつの見本にした人です。
「こうしろ」とはあまり言わなかったけれど、彼の態度を見て学んでほしかったのだと思います。

そう考えると、森田正馬から学べることは、まだまだたくさんありそうです。

この「苦楽共存」。
あまりにも自分の思考が暗い方に傾いたときは、コップに残っているもう半分の水に感謝することも、元気を取り戻すひとつのヒントになるかもしれません。


神田祭り 
神田明神のお祭りに行きました。この巨大な像は誰なんでしょう? 
平将門?

自分が神経症だとわからなかった・・・

私の相談室にいらっしゃるのは、神経症(不安障害)のかたが多いのですが、いろいろな段階のかたがいらっしゃいます。

本や、グループですでに森田療法を知って概略はわかっている。症状も、かつての強烈さはないけれど、今一つすっきりしないので一対一のセッションを持ちたいと思っていらっしゃるかた。
もっと自分の性格を知りたいと思っていらっしゃるかた。
森田療法を学びたいと思っていらっしゃるかた。

ただやはり多いのは「自分が神経症と初めてわかった」という人。
もう10年も20年も、なんだかわからない状態にいて、苦しくてたまらなかったけれど、それが「不安」が原因で起こっていることだとは思わなかったというかたです。

自分の身体の具合が悪い。
フラフラする、ドキドキする。眠れない。
どうしても自分の目つきが他人に迷惑をかけていると信じていて、その目つきをどうにかしたら、楽になると思っていたかた。
耳鳴りが気になり、医者巡りをしていたというかた。
自分が、非常に不快な匂いを出していて、その匂いをどうにかしなくてはと、苦しみ続けていたかた。
自分の顔が醜くて、他の人から好かれないと思ってずっと悩みつづけたかた。

それが「不安障害(神経症)」であって、こういうことで悩むのは自分だけではなかったのだと理解できると、それだけで気持ちが少し明るくなります。

不安障害には、きちんと治る治療法があります。
むしろ、不安障害は精神的な悩みのなかでも、一番治る道筋がはっきりしているものかもしれません。
それだけに、長い年月を「わけのわからない悩み」に閉じ込められて生きてしまうのは、もったいないことです。

まずは悩んだらきちんと話を聞いてくれるお医者さまに行くのもひとつの方法です。
お医者様は診断をしてくれます。
(できれば森田療法を知っているお医者様なら誤診される心配がありません)
そして、もっと話を聞いてほしいということであれば、カウンセリングにいらっしゃってください。

10年、20年悩んだ症状でも、治るのにそれほど時間はかかりません。
そのかたの状態にもよりますが、10~20回のカウンセリングで落ち着きます。
(これは、「森田療法ガイドライン」などに載っている標準の回数です。私の感触でも同じです)

元号が変わり、時代の節目と人は大騒ぎしています。
せっかく新しい時代になるのですから、もう悩みとは決別するという希望を持ちたいですね。

今回はちょっと宣伝が入っている感じですが、長く悩んでいるかたに、ぜひ楽になっていただきたいと、書いてみました。



hello

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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