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人生観が変わる

森田正馬は、「人生観が変わったから治る」ということを言っています。

確かに、森田療法で症状を克服しようとするときに、この「人生観が変わる」ということは必須なのだなぁと、このところ実感しています。

あわせて、「森田療法は感情に対する療法」ということも、やはり実感しています。

神経症の克服がなかなかはかどらないかたは、このあたりにネックがあるようです。

つまり頭のなかのイメージとして、症状はすっきりなくなって、毎日の気分は爽快になるというようなことを望んでいらっしゃる。
それで、なかなか変化が起こらない。

私たちが人間であるからには、毎日気分が爽快などということはあり得ないのです。
あたかもそんなことが起こるようなふれこみの、心理療法や自己啓発セミナーがあります。
そういうことを言われると、毎日元気で楽しい気分で生きることが本当にできると思ってしまう。
他の人たちは、皆そうやって元気に生きていて、自分だけこんなに悩みがいっぱいの人生を送っていると思えば、そこから脱する道があると思うのも当然です。

けれど程度の差はあれ、人間であるからには、皆、時には不快感を抱え、悩みや心配事を抱えて生きているのです。

私だって家事や仕事のなかで「面倒くさい」「やりたくない」と思うことも多いです。それだけでなく、面倒くさい仕事になると、なかなか手をつけない、はかどらない自分にも毎度うんざりします。
そんなときには、とりかかるまでに緊張感さえ覚えることもあります。

でも人間だったら当たり前のことと、自分では思っています。

長い間症状に悩む人というのは、そういうちょっとの不快な感情も「症状」だと思い、それが消えないからまだ私は治っていないと思い込むのです。

生きていくということは、そういう不快感とともに、それでも自分のやりたいことを何とかやっていくこと。
それが森田療法で言う、価値観の変化ではないでしょうか。
つまり症状や不快感を取り去ろうとする他の治療法とは、人間の心に対する見方が違うのです。

現実の中で、自分が生き生きしてきたら、その不快感は重くなくなってくる。
不快感にあまりに注意を向けて、それを取り去ろうとするから、不快感が重くなるのです。
現実がしっかり見えてきたら、不快感は、自分の現実の一部、当たり前のこととして受け取れるようになってくるのです。

それは「気分本位」から「ものごと本位」という価値観の転換です。

そしてこの価値観の変化こそ、自分の気分、感情に対する思い込みから、私たちを解放し、今までと違う生き方をさせてくれるのです。



お皿

対立と融和

新しい年になりました。
今年もよろしくお願いいたします。

昨年は、世界のあちこちで対立が深まった年でした。
国と国との対立や人種間の対立、宗教間の対立、主義の対立。
国の代表が融和でなく、対立をあおっているという憂うべき事態も目立ちました。

外の国やグループを「敵視」して、対立をあおるというのは、昔から施政者やリーダーがよくとる手段です。
そうすれば国内あるいはグループ内が、危機感のなかで簡単にまとまるからです。
そしてリーダーに対する期待感のようなものも増します。

ただただ人の信任を得たいだけのチープなリーダーであれば飛びつく簡単な方法です。

その反対に「融和」するということは、対立することよりずっと難しいことのように思われます。

異なるものを認めなくてはならないし、そのためにはこちら側がしっかりと自立していないとならない。
融和には、飲み込まれる恐怖が伴うからです。
対立するよりもずっと強さが必要です。

ニュースを見ながら、そんなことを思って年を越し・・・。
でも対立と融和は、人間の心の中にも起こっているのかなと思いました。

どうやら負け嫌いの人にとっては、外の人が競争相手、対立相手になることが多そうです。
それだけならまだしも、自分のなかの「何か」が気に入らないと、自分自身さえ対立相手になってしまうことがあります。

こんな自分は嫌だ、こんな能力では嫌だ、こんな性格は嫌だ、こんな気持ちは嫌だ。
そうやって分割できない自分のなかに対立相手を作ってしまったら、とても悲惨なことになります。
嫌いな自分といつも一緒にいなくてはならない。
嫌いな部分があるから、永遠に自分を認めることができない。

この場合の融和とはどういうことでしょう?

嫌いな自分は私の理想(価値観)とは違うけれど、それはまぎれもなくそこにある「事実」。
「イヤ」という感覚はあるし、違和感もあるけれど、しかたなくそのままにしておくしかない。
しかたなく、そこから始めるしかない。

無理やり自分のなかの敵を作り変えようとすることで、もっと苛烈な戦いが起こってくることが予想されます。

あるいは無理やり好きになる必要もないのかもしれません。
本当のところ、それはただの「事実」であって、それ以上でもそれ以下でもない。

私たちはただその「事実」と共存し、淡々と毎日を生きていくしか方法はないのかもしれません。

そのうち、嫌いな私も変化し、私自身の価値観も変化し、知らず知らずのうちに自分自身のなかで融和していくものなのでしょう。

新年早々、抽象的になりましたが、何を言っているのかはおわかりいただけると思います。

それにしても、これ以上、対立や争いのニュース、対立をあおるニュースなどを見たくないと思う年明けです。


福寿草

今という貴重な時間


今まで森田正馬の生き方を書いたり、読んだりしていて、実感としてわかったことがあります。

森田正馬は、人生で何度も何度も危篤状態になりました。
本当に身体が弱かった人のようです。
おまけにその頃の医療も薬品も今ほど発達していません。

彼がかかった病気は、腸チフス、脚気、結核、腸炎、肺炎・・・とにかくいろいろな病気で「もうあぶない」と言われることも三、四回経験しています。

彼の強烈な生きることへの欲求、時間への執着、自分の人生を形として残すことへのこだわりは、この「危篤」状態を何度も経験したためでもあったのでしょう。
病弱なのに、いくつも仕事を掛け持ちして、なおかつ入院療法を行い、原稿を書きました。

自分の「死」を目前にする経験は、その人の人生観そのものを変化させます。
それを繰り返し体験したのですから、それが彼の思想に色濃く影響を与えたのだと思います。

若い頃は、自分には時間が無限にあるような気がします。
悩んでいても、まだまだこれから挽回できると、心の奥底では思っていたりします。
あるいは「死」というものがまだ漠然としているからこそ、簡単に「死」を考えたりします。

「今」という時間の貴重さは、その時間が限りあるものだと実感できたときに、やっとしっかり理解できるものかもしれません。

年齢を重ねてくると、当然のことながら自分の持ち時間の限界がわかってきます。
そうすると、心境も変化してきます。

自分について言えば、何か参加したいことがあったときに、以前ならためらって「次のときにするか・・」と消極的になったものです。
でも、今は「もう次はないかもしれない」と思いますから、簡単に決断して参加できます。

私には完全主義があって、小説なども読み始めたら読み終えないと気持ちがすっきりしないところがありました。
この頃は、時間がもったいなくて、「つまらない」と感じたらそこでやめます。
買って積んでおいた本も、「これはもう読まないな」と思ったらすぐ売ってしまいます。

ものを捨てるのも簡単になりました。
諦めも早くなりました。

その分、余分なものではなく、本当に自分が楽しめるもの、自分がどうしてもやりたい仕事に集中できているように思います。

これをもう少し若い頃からできていたら、消極的なせいでやらなかったことはもっと少なくなったし、時間の使い方も違ったかもしれません。

しかし、考えてみれば、いくら若くても自分の時間が有限であることに変わりはありません。
ただ、実感として感じられないだけなのですね。

旧い年と新しい年の境目。
時間にはっきりと区切りがつくこの時に、今という時間の貴重さを感じてみるのもいいかもしれません。

皆様、良いお年を!


正月イルミ

森田療法とキリスト教(あるかたの体験)

先日、自分の文章について、このブログでご紹介しました。
2回前のブログ「自分を欺くことと自分を知ること」です。

そのブログをお読みいただいたかたから、とても大きな気づきと転回があったと、メールをいただきました。

そのかたはキリスト教を信仰なさっていて、キリスト教の教義のなかにある「かくあるべし」風のところにひっかかっていらっしゃったようです。

お聞きすると、何か「あるがまま体験」に近いようでした。

お知らせくださったので、私からお願いして、そのかたの了解を得て、ブログへのリンクを貼り付けます。
下のタイトルをクリックしてください。

話相手は枕

キリスト教の信仰をお持ちのかたも多いと思います。
このブログが考え方のヒントになるかもしれませんね。

もうすぐ、クリスマス、お正月・・・ハッピーと感じるかたも多いかもしれませんが、逆に心が沈むというかたも多いようです。

来年は10連休もあるとか。
その時間をどう使うか、どう楽しむか、どう遊ぶか。

そんなふうに考えられるといいんですけれど。



ツインツリー

練習ではなく実際

森田療法の大筋の技法を把握していらっしゃるかたは多いと思います。

けれどこの療法のなかには、大筋だけではなく、さまざまな人間の感情、心理を理解しながら、それを症状回復のために利用し、その人の生活を前向きにしていく技法がたくさんあります。

ひとつの面白い例で言えば、森田正馬の入院療法は当時からすれば、非常に高いお金をとったのだそうです。
それで入院中は作業をするのですから、高いお金をとってこき使われるという悪評もあったようです。

しかしこの高額な料金も、これだけ高いお金を払ったのだからと、皆が真剣に最後まで取り組むようになるということを念頭においてのことだそうです。
確かに、料金が安かったり、ただだったりしたら、私たちの心はそこまで真剣にはなりませんね。

人間の心理をよく理解し、それをうまく利用して治療を軌道にのせる方向にもっていったわけです。

たとえば、よく「練習でなく、実際」と言われます。

具体例として言えば、不安症状のために電車に乗れない。
それを克服するためには、まず電車に乗ってみようと考えるのは普通です。
しかしここで「練習でなく、実際」と言われます。

つまり症状を克服するのを目的にして、乗れるかどうか試してみよう・・・というのが「練習」です。
「実際」というのは、何かの目的があってその電車に乗る時のことです。
どうしても約束がある。入社試験があるから、その電車に乗らなくてはならない。
これが「実際」です。

行為としては同じじゃないか、だから練習でもいいではないか、と思われるかもしれません。
しかし心理としては全く違うのです。

不安発作を起こさずに乗れるか確かめている時は、自分の注意は「症状をはかる」ほうに向きます。
発作を起こさずに乗れたかどうかが大事なポイントになります。
結局のところ、「症状本位」「気分本位」の行動ですね。
自分の心はまだ症状があるかないか、症状が起こるか消えたか、それをテーマにしていることになります。

でも、きちんとした目当てがあって乗る時には、その目的を達成したかどうかがポイントになります。
たとえ症状が起こっても、きちんと用事ができたことが大切。
これが「実際」です。
「ものごと本位」の行動です。

この差はとても微妙に見えます。
でも森田療法の実践という点から見たら、大きな差異があるのです。

森田療法というのは(あるいは森田正馬は)、そういう人間心理の機微をうまく利用するというところに長けています。

別に他の治療法を悪く言いたくはないのですが、行動療法での治療で、ひたすら恐怖突入をしても、いっこうに症状が良くならない人がいるのは、こういう点が違っているのです。

症状を治すことを目的とした行動は、いつでも練習ということになるのです。

大事なのは、本当に人生を生きること。
瞬間瞬間を真剣に事実に添って生きることなのでしょう。


シクラメン


プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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