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心配性の自分が苦しい

悩み事と心配事。
この二つははっきりと区別できるわけでもありませんが、あえて区別してみましょう。
悩み事は現実に目の前で起こっていること。
心配事は、ほんの少しの兆候をつかまえて、将来とても大きな不幸が起こるのではないかと空想することと言えるかもしれません。

相談にいらっしゃるかたで「心配性の自分が苦しい」と話されるかたはとても多い。

心配することは、確かに苦しいことです。
私も心配性なところがあるから、この苦しさはよくわかります。

心配しているときには、まだ現実的にそこまで悪いことが起こっているわけではないのですが、心配のタネになることがあって、それをもとに自分のなかで空想がどんどん膨らんでいくのです。

この空想が悪い方向に膨らむことが、実に苦しい。
なぜなら、空想というものは、無限に大きくなれる。どんなことでも考えられるからです。
悲観的な考え方をする人は、悲観のほうにどんどん空想を発展させていきます。

ずっと昔、癌恐怖という神経症のかたの話をきいたことがあります。
自分の身体のどこかに癌があると信じ込み、医者巡りをし、どうしても癌が見つからず(つまり現実に癌はないのですが)怖くて怖くてヘトヘトになってしまった。
でも医者巡りをやめられないのです。
ところが、何年かして、そのかたが本当に癌になった。
そうしたら、心境がまったく変化したのです。
癌恐怖と、本当の癌では、怖さが全然違う。

実際の癌は、治療するしかない。
そうすると、思考も行動も現実的になります。
必死なので、変な空想の入り込む余地がない。
転移や再発が心配なら検査をすれば、結果が現実的に目の前に提示される。
そしてまた行動を選び、実際生活のなかで治療・養生をするしかないのです。

これから何か悪いことが起きるのではないかと心配しているときの恐怖は、幽霊が出るのではないかと怯えているような恐怖です。
いくらでもふくらんでいく恐怖ですね。

まぁ、でも怖いものは怖いのでしかたがない。
こんなときは、セラピストに「ご心配なんですね」などと下手に共感されるより、太っ腹な友人に「なに馬鹿なこと考えてるの!」などと、喝を入れてもらったほうが楽になるかもしれません。

大切なのは、現実にはまだ何も起こっていないということ。
幽霊を自分で呼び出すような真似をするより、「目の前のこと」と「今」にフォーカスしていればいい。

そしてまた、今現在自分が持っているものにもフォーカスする。

生きている限り、私たちは、実はたくさんのものを持っています。
「子どもが不登校になった。将来ひきこもりになるかもしれない」などと心配するより、「少なくとも今は、親子ともども健康で生きている」・・・と考える。

「少なくとも~できている」「少なくとも~はある」と意識的に考えてみるのもいいかもしれません。
「足りないもの」は無限にあって、それは私たちを脅かすけれど、持っているものを数えることは私たちを落ち着いた気持ちにさせます。

そしてまた、心配事について、そんなことが起こっても自分には対処できるはずだ(あるいは心配している対象の人は対処できるはずだ)と、考えてみることもいいかもしれません。
先ほどあげた「癌恐怖」の人の例のように、空想の怖さは現実の怖さとまったく質が違い、ほとんどの場合、現実の困難に対処しているときには、どこからか力が湧いてきて、幽霊に怯えているような怖さはないはずだからです。

イルミラクア

小さなダイヤを受け取る

常々、物事を悲観的な方向にだけとらえる人たちがいるのを、なぜだろうと疑問に思っていました。
その考え方が苦しみの原因になっていることが多いからです。

そして、先日あるかたから「メレダイヤ集め」のお話を聞いて、これは悲観的な人には参考になることかなと思ったのです。

「メレダイヤ集め」は,故遠藤優子先生の言葉です。引用してみます。

「私はよくグループのなかで『メレダイヤ集め』を課題にします。メレダイヤとは、ごく小粒のダイヤのことで、周囲との関係で、些細なことでも自分の心がホッと暖かく感じた瞬間を、きちんと受け止めて語る練習をしていきます。メレダイヤを50粒も集めたら、とても豪華な指輪になります。それが自己愛の指輪であり、『この世界もなかなかいいものだ。自分はこの世界に受け入れられている存在なのだ』という自己像と世界観なのです」
(ASK選書14「苦しさの一番奥にあるのは『見捨てられ不安』だった」ASKヒューマンケア)

悲観的な見方をしてしまう根源は、この「メレダイヤ」を受け取れないことにあるのかもしれません。

この文章は「人間関係」のことについて書いてありますが、これは日常のひとつひとつのことにあてはめて考えることができます。

「今日はお天気がよくて空がきれいだった」
「ランチで入ったお店が美味しかった」
「結構仕事がはかどった」

メレダイヤのような小さな喜びは毎日の生活に散りばめられています。
その喜びは、ふっと湧き上がってきます。
しかし悲観的な人は、その喜びを次に浮かんでくる第二念で打ち消してしまう。

特に自分に関連してくることだと、その傾向は顕著です。

「ほめられたけれど、あまり期待されるのもなぁ・・・」
「誕生日プレゼントもらったけど、お返しがちょっと面倒」
「電車で席を譲ってもらったけれど、周りの目が気になる」

このときの気持ちをよく見てみると、最初に必ず小さな「うれしさ」があるはずです。
ほめられたり、プレゼントをされてもうれしくないのは、よほどのあまのじゃく。

この最初のうれしさが「純なこころ」です。
それをつかまえる。
そしてしっかり受け止める。

プレゼントのお返しを気にするなど、そのあとに起こりそうなことを考えるのは、もっと先でいい。

メレダイヤのような「純なこころ」を受け取れず、いつも第二念、第三念が湧き起こってくるのは、その人の心に「かくあるべし」があるからでしょう。
「こうでなくてはならない」「普通こうだろう」「きっとこんなことが起こるだろう」などという決めつけが、必ず「うれしさ」のあとに来るので、その人の思考は幸福な気持ちを打ち消し続けていることになります。

「今、ここ」の小さく輝く「純なこころ」をしっかり受け取る。
それを続けられたら、周囲の人に対する見方や、自分の環境に対する見方は少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
実際には、私たちはたくさんの「喜び」に囲まれているはず。

たとえ困難な状況にあっても、たった今の小さな「喜び」を見つけて味わうことについては、何の差し障りもないでしょう。

香嵐渓

「どうしたらいい?」の謎

遥か昔の話です。
森田療法の学習団体「生活の発見会」で、とある高名な心理学の先生をお招きして講演を伺ったことがあります。
そのかたは、森田療法家ではなく、女性のかたでした。

お話が終わったあと、質問の時間になり、会場からは質問が結構出ました。
ところがその質問が、ほとんど「どうしたら治りますか?」「どうしたら○○な状態になれますか?」「どうしたら・・・?」という形のものばかりだったのです。

温厚な先生でしたが、あまりにそういう質問が続くので、最後は明らかにイラッとした感じになり、「皆さんは、どうしてそんなに簡単な解決法ばかり望むのでしょう」というようなことをおっしゃいました。(正確な言葉は覚えていませんが)
じっくりと時間をかけて対話をし、自分を見つめていくというカウンセリングの定石を熟知し実践なさっているかただからこそ、いつもと違う反応に面食らったのかもしれません。

帰りにお見送りする役目だった私は、その先生と一緒にエレベーターに乗りましたが、先生は「私としたことが、つい・・・」と、ご自身の発言を恥じていらっしゃいました。
無理もないことです。
神経症(不安障害)の人と、あまりお会いになったことがない人は、「どうしたら?」という質問を浴びせられたこともない。
きっと意味がわからなかったと思うのです。

しかしこの「どうしたら治りますか?」という質問は、神経症のかたに特徴的な質問です。
カウンセリングにいらっしゃる他の悩みのかたがたは、「どうしたら?」というよりむしろ、「どうしてこんなふうになってしまったのでしょう」的な質問をすることが多いようです。

私自身、この違いをはっきりとわかっているわけでもないのですが、「どうして?」という質問には悩んでいる主体である「私」が含まれているような感じがします。
一方「どうしたら?」という質問は、症状を何か「おでき」とか「異物」のように思っているニュアンスがあります。

この苦しみは「病気」あるいは「異常」だから、治すべきものだというような感じです。
そして、何かの「方法」を適用すれば、この異物が取り除けると信じているきらいがあります。
それだけ苦しいのだということも理解できますが。

このような思考方法が、いわゆる「症状」を作り上げ、悪化させるものであることは、森田療法をよくご存じのかたには、おわかりと思います。

いわゆる「症状」や「不快感」を「どうにかして」取り去ろうとすること自体が、症状の原因でもあるわけです。

それにこの言葉は、神経症の人たちの功利性を表しているかもしれません。
じっくり自分を見つめるというより、最短コースで楽になりたい、そういう表現であるかもしれません。

「どうしたら?」はまた、神経症の人たちのコントロール欲求を如実に表しています。
コントロール欲求は、自然なもので、悪いわけではないのですが、それが向かう対象がコントロール不能なものである場合、空回りの悪循環になってしまいます。

つまり、(急に結論に入ってしまいますが)このコントロール欲求が、コントロール可能なものに向かい始めた時に、不可能なものに向かって空回りして「症状」になっていたものから解き放される。

「どうしたらいいんですか?」という質問は、自分の行動や仕事のやりかた、遊び方、楽しみ方、人とのコミュニケーションのしかたのほうに向かえばいいのではないでしょうか?

おせっかいですが、コントロール不可能なもののなかには「他人」も入ります。
そのあたりはお気をつけて。

ラクア

森田療法が誤解される理由 その2

なんだか、ようやく気候が安定してきた感のある今日この頃。
こうやって毎年、天候のことを心配しなくてはならない時代になってしまったのですね。

さて、誤解される理由・後編です。

今回は、森田療法を学ぶ側の思考のクセについて。

森田療法を学ぶ神経質のかたは、たいていの場合、知的なかたです。
知的ということは、言語や観念での理解には長けているということ。
頭脳が発達しているかたと言っていいでしょう。

そしてどちらかというと、ややこしい考え方をする(というより「してしまう」)のですね。
たとえば、何かを思うとすぐにそれと反対のことを思う、あるいはすぐに反証してしまうとかいうこと。(精神の拮抗作用)
誰にでもあることですが、それが特に多いし、なおかつそれをつかまえる。
だから頭のなかがいつも忙しいわけです。

そんな人たちが森田正馬の原典を読むと、それを自分の思考形態に合わせて解釈することになります。

原典の森田の言葉は、非常に具体的です。
むしろ森田正馬は、話が抽象的にならないように細心の注意を払っています。
抽象的になった場合は、わざわざ謝るぐらいに気をつかっています。

それは彼が、神経質者の観念性、教条性を非常によく理解していたからではないでしょうか。
ときたまお弟子さんたちを叱るときも、「森田のいうことを観念化する!」とか「教条化する」とか指摘していました。

つまり神経質者は、言葉が達者なだけではなく、言葉にとらわれる人たちなのです。
まず言葉が先にくる。
それをもとに、そこから行動をする。

「森田療法は日常実践」という言葉を聞くと、「実践する」⇒「実践しよう」⇒「実践しなくてはならない」というふうに脳内変換していく。
そうしてからものごとにとりかかるのですから、もうそこに「しなければならない」に伴う「嫌な感じ」が出てくる。
そして「森田の実践は苦しい」という観念ができあがる。

余談ですが、とある初心者がグループに出席したところ、年長者のかたに「森田療法はそんな甘いものじゃない!」と一喝されたそうです。
こういう年長者のかたも、「しなければならないこと」を刻苦して実践していくというのが森田療法、という観念が出来上がってしまっているのでしょう。
初心者にとっては、残念なことです。

「実践」と言われたときに、「あぁ、そうか」と納得してすぐに動き始める人が「素直な人」で、森田正馬は「素直な人は早く治る」と言っています。

動いてみれば、何かの感じが出てくる。
そしてその感じがまた身体を動かす。
そこから実際の興味・関心が湧いてきて、実践をしていくことがなんら苦痛ではなくなっていく。

現実の世界で動いていくことが、その人の現実的な成果になり(たとえささやかなものでも)、またその人を前に動かしていく。
その境地に行きつくのを助けるのが森田療法。

でもね、それでは「こういうふうになろう。どうしたらなれるか」と考え始めると、同じところに戻ってしまうのですよ。
そこが「言葉人間」にとっての森田療法のむずかしさ。

グループなどで、自分のしたこと、具体例で森田療法を伝えられればいいのですが、観念化したり教条化した森田を伝えることが多いと、森田療法がどんどん誤解されていくのかなと思います。

すすき



森田療法についての疑問などもお気軽にご相談ください ⇒ お茶の水セラピールーム

森田療法が誤解される理由 その1

*台風19号で被災されたかたにお見舞い申し上げます。予期しない災害でお困りのかたも多いことと思います。なるべく早くもとの日常に戻れますようお祈りしております。


さてこのところ、長い間森田療法を自分で学習していながら、まったく楽になっていないという方々と接する機会が多くありました。

そのかたたちの苦しかった年月のことを思い、無駄にしてしまった時間を思うと、とても残念な気がしています。
なぜなら、森田療法による神経症からの回復は、それほど時間のかかるものとは思えないからです。

どうしてそうなってしまうのか、その理由を少し真剣に考えてみようと思いました。

森田療法に対する誤解の代表的なものは、これが「行動療法」的なものであるというとらえかた。
簡単に言ってしまえば、「なすべきをなす」行動をしていれば、「神経症の症状」は楽になっていく、というもの。

今回はそれについて、考えてみましょう。

実のところ、森田療法がそういうものだと言われていた時代もあったのです。
一見、とてもわかりやすいように見える。誰にでもできそうです。
必ずしも間違っているわけではなく、第一歩として行動から始めることも必要です。
それで楽になっていく人もいるでしょう。

けれど、森田療法はそういう行動と同時に、自分の自然な意欲・欲求を湧き上がらせる方向にその人を導くのです。
そのためには、自分の感じ、感情を大切にし、人間の心がどのように動いていくのかを理解し、自覚を深め、環境に適応していく、そして現実をしっかりと見られるようになることが大切です。

しかし、人間の心の機微に対して働きかけるそのような部分を全く飛ばして、とにかく行動する、努力する、湧き上がってくる感情を無視して突き進む。
これが森田療法だと思うのが、最も多い誤解ではないでしょうか。

湧いてくる自分の感情を嫌悪するのが神経症の人の特徴。
ですから、このいやな感じを消したい、行動したら消えると思って行動する。
そうすると必ず自分の気持ちに対して「症状は消えたかな?」というチェックが入る。これがますます症状を増悪させるのです。

ですからいくら行動しても、ちっとも楽にはならない場合も多いのです。

なぜそんな方向になってしまうのでしょう。
ひとつには森田療法に対する知識が偏っていること。

たとえばグループなどで、症状の苦しさを訴える。
そのとき神経質の人は「どうしたらいいんですか?」と必ず尋ねるのです。
苦しそうな相手を見て、先輩はやはり何とかしてあげたいと思う。
そんな時に「苦痛は苦痛のまま・・」などとは言いにくい。
そんな答えだったら、相手は「なんだ、楽にならないのか」とあきらめてしまうでしょう。
ですから、行動を勧めたり、生活を正していくアプローチをアドバイスしたりということになります。

私などもカウンセリングの際、最初はやはり身体を動かすアプローチをお勧めする場合があります。
でも、何回も来てくれれば、そのなかでだんだん森田療法の本当に意図することを伝えることができます。

けれど、これから深めてもらおうと思っても、悩んでいるかたがそこで学ぶのをやめてしまえば、「行動アプローチ」だけが森田療法と思ってしまうことも多いでしょう。

行動アプローチから森田療法に入っても、その行動を「義務」と感じたり、治すための行動であれば、その人の意欲は、いつまでたっても押しつぶされたままです。

そのあたりの機微を言葉で伝えるのはむずかしい。
最初はとにかく、「必ず楽になります」「森田療法はまだまだ先があります。離れないで学んでください」というしかないのかなと、思ったりします。



空

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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