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2022年、コロナ体験記

あまりブログも書けぬまま、2022年最後の日になってしまいました。

今年は引き続きコロナ禍とはいえ、世界的にも戦争が起こったり、いろいろなことがありました。あちこちで異常気象のための災害が起こりましたし、不穏な世の中です。

なによりも、ここ数年で起こってきたのが、情報も統計も信頼できないという事態です。
自分たちに都合のよい情報を流したり、統計をいじったり。

実は今月は森田療法の「事実唯真」について、書こうと思っていたのですが、悪い癖で観念的に考えすぎて、書けなくなってしまいました。
何が事実なのかわからない世の中になってきました。

今、皆さんが気にしている「何が事実か?」は、コロナウィルス感染症のことだと思います。

ワクチンは安全なのか? コロナにかかったらどうなるのか?

医学者でもなんでもない私たちにとって、これはひとことで「わからない」ことだと思います。
「わからない」というのも「事実」。

実は私は今年コロナにかかりました。
どこでうつったかわかりません。
私がコロナに感染したことを話すと、「実は私も・・」と話してくださるかたが何人かいらっしゃいました。

殆ど症状がない軽いかたから、高熱に苦しんだ、咳がひどかった、喉が腫れたというかたまで。
また、後遺症に苦しんでいらっしゃるかたもいれば、なんともない人もいます。
本当にこれは、その人によってそれぞれで、一概には言えない病気です。

私の場合、熱は1日くらいしか出ませんでしたが、ひどい喉の腫れで2日くらい水ものめませんでした。
飲むと誤嚥になってしまうのです。
しかし発熱外来でお薬(ロキソニンとか)をいただいて飲んだら、2日くらいで治りました。

私が「これはただの風邪ではない」と思ったのは、一番症状がひどいときの脱力感です。
身体中の筋肉に力が入らない。
1日だけでしたが、ちょっと不安な気がしました。
後遺症のかたは、この脱力感がずっと続いているのかもしれません。
老人や闘病中のかたは、要注意です。

幸い、私には後遺症はないようです。

この体験でわかったことは、結局、その人の免疫力、自己治癒力を鍛えるしかないということ。

鍛える方法はYouTubeなどでいくらでも発信されています。

それに加えて私が神経質のかたに特に伝えたいのは「無理をしないこと」。
神経質のかたは比較的エネルギーのあるかたですが、思考優先なので、自分にノルマを課して遂行することに一生懸命になりがち。
また、なるべく明るいこと、楽しいことに目を向けることです。
お正月休みには、いつもよりずっとゆるい毎日をお過ごしになったらいかがでしょう。

それから変に具体的なことになりますが、まだコロナにかかっていない人は市販の「葛根湯」を備えておいたほうがいいようです。
東北大学の研究で、葛根湯がコロナの重症化を防ぐという結果が出ています。
私も、「これはあやしい」と思ったときから発熱外来にたどりつくまでの間、葛根湯を飲んでいました。
もちろん症状がひどいときは処方されたお薬を飲んだ方がいいです。
コロナは、軽い風邪症状が回復後1,2週間続くことがありますが、そのときも私は葛根湯を飲んでいました。

そして最後に、コロナのときには、保健所の方、医療従事者のかたには本当にお世話になりました。
忙しい中、対処のしかたなど電話で丁寧に話していただきました。
この年の瀬も、休みなく働いていらっしゃると思いますが、感謝しかありません。
燃え尽きることがありませんように。

そして皆様、どうぞ良いお年を!

イルミネーション

「いいね!」の呪縛

ご自身でブログやインスタをやっていらっしゃって、いろいろ発表するけれど、その記事につく「いいね!」や「拍手」の数が気になってしかたない、というかたがいらっしゃいます。

「多かった」「少なかった」と一喜一憂してしまい、いっそアップをやめてしまおうかと嘆く方がいます。

「拍手」や「いいね!」を直接的な「評価」ととらえていらっしゃるのですね。

私自身も、もっと歳が若かったら、そういうことが気になるかもしれません。
けれど、今は「いいね!」を「評価」とはとらえていない。
違う風に読み取っているかもしれません。
もちろん、いただいた「いいね!」をどんなふうに解釈しても、それはこちらの自由ですよね?

私のこのブログを例にとってみれば、このブログは他のブログより「拍手」の数が少ない傾向があります。
読者の数はそれほど多くないかもしれませんし、その割合を計算するなんて面倒なことはしませんが、読者は多分神経質で森田療法に興味のある人が殆どと思います。
だとしたら、拍手が少ないのも納得できます。
だって神経質は皆、結構「厳しい」人たちですよね。
そう簡単に「拍手」などくれないと思います。
だから別に拍手の数が少なくても、私は気になりません。

以前は森田療法以外の、自分のニッチな趣味のことも書いていました。
ところが、あまりに拍手が少ない。
これは、仕方がないことでしたが、差が歴然としていたので、少し気落ちして、他で書くことにしました。
「ランダムマンダラ」は森田療法、精神療法専用ブログになってしまいました。
自分としてはあまり面白くなくなりました。

同じ森田療法、心理関係の記事でも、もちろん「拍手」の数は違います。

一生懸命書いても、意外に「拍手」が少ない時がある。
そんなとき、「そうか、少し難しかったのかな」と解釈します。
興味がなかったのかもしれません。

かといって、拍手めざして記事を書くことはしません。
そのときに思いついた書きたいことを書いています。

さて、私自身が他の記事やYouTubeに「いいね!」するときにはどうするか?
基本、見せてもらった「お礼」の意味で、(忘れなければ)「いいね!」をつけます。
だって、無料で一生懸命工夫して書いたり、撮影したり、解説したりしてくれているんですよ。
最後まで読めなかったり、見られなかったものにはつけません。
大体、そんな感じで、私の「いいね!」はお礼であって「評価」ではないようです。

なぜ長々、こういうことを書いたか?
「いいね!」をただただ「評価」と解釈して落ち込んでいらっしゃるかたに、ちょっと考えていただきたいのです。
多分そういう方は、自分が「いいね!」をつけるときにも、非常に慎重に評価していらっしゃる。
だから他の人もそうだと思っている。

けれど、向こう側にいる「誰か」は、まったく違う意味でつけたりつけなかったりしている。
基準があるわけではないし、相手の自由だから、それはそれでいいわけです。

そんな確かでないものにわずらわされるより、(たとえ「いいね!」がつかなくとも)自分の表現ができた。
その一番大事なところを忘れないでほしいのです。

夜景

少し気楽に

秋らしく活動しやすい気候になってきました。
こんなときは、散歩をしたり、オープンカフェで読書したいものです。

こうやって「~したいものです」と言っても、なかなかしないのが自分。
長年「自分」とつきあっているから、よ~くわかっているのですが、他のかたに「散歩でも・・・」などと勧めても、自分で実行に移すのはせいぜい1週間に1回ぐらい。
カフェで読書なんてひと月に1回くらい。

この歳になって、これではいけないと思い始めているところです。
動けないという意味ではなく、のんびりできないのです。

森田療法の悪影響でしょうか(笑)、休みの日でも朝から「やることリスト」を作り、今日中に家のあそこを片付け、この本を読み図書館に返して、用事があるからあそこに出かけ、そのついでにあそこで買い物をして・・・と、忙しく計画を立てる。
毎日が「やることリスト」の計画で埋まっております。

この頃わかったのですが、どうも私は忙しくしていないといられない人のようです。
「目的意識」が好きなのか。
忙しいという「感じ」で充足しているのか。
「感じ」と言ったのは、忙しくても、必ずしもものごとがはかどっているわけではないからです。

最近やっと、夜の時間は何もせず、ストリーミングサービスでドラマを見るということを「自分に許す」ようになってきました。
「自分に許す」というのは、以前もこういうことをしていたのですが、どこか「罪の意識」があったのですね。
この罪の意識は何なのでしょう?
遊ぶことに対して罪悪感があるんでしょうか?
ワーカホリックなのでしょうか?
自分の時間は有意義なことに使わなければならないという観念がこびりついていたのでしょう。

結果、現実にはダラダラ遊んでいたのですが、心から楽しんでいないような・・・そんな感じがありました。
そのようなかたも多いのではないかと思います。

本日はそんなかたがたのために本をご紹介します。
特に「うつ」的な人には読んでほしい本です。

「あやうく一生懸命生きるところだった」(ハ・ワン著)。
もう2年ほど前に日本でも評判になった本ですから、いまさらの紹介ですが。
韓国でも日本でもベストセラーだったそうです。

著者は、韓国の芸大のような最高峰の大学に何年も浪人して入学し、イラストレーターとして身を立てるべく一生懸命生きてきた。
ところが、一生懸命努力しても、報われるどころか、どんどん苦しくなっていくような気がする。
そして40歳にして「今日から必死に生きないようにしよう」と決心するのです。

気楽に読めて、なるほどと思える言葉がたくさんあります。

「時間は、何かをしてこそ意味があるわけではない。/時には、何もしない時間にこそ大きな意味がある」
「偶然の楽しみでいっぱいの目的のない一歩。/これこそが人生を豊かにしてくれる醍醐味なのかもしれない。」
「我慢してやみくもに努力することだけが能力ではない」
「答えを出すことだけに集中し、問題を解く楽しさを忘れてはいないだろうか?」
「人生は『答え』じゃなくて『リアクション』が重要な試験なのだから」

森田の「努力即幸福」という言葉を思ったりしました。(皆さんは努力即幸福のちゃんとした意味、ご存じですよね?)

読むと気持ちが軽くなりますよ。


「変」って何?

面白い新聞記事を読みました。
最近の話です。

アフリカで開催されたとある会議。
この会議の主催国は日本だったそうです。

各国の代表団がいるなか、日本代表団だけが全員マスクをしていたそうです。
そしてそれを見たまわりの人たちは笑い、スマホで写真を撮る人もいたとか。
(この記事のテーマは他にあって、日本の影響力の低下だったと思いますが。)

さて、これを読んであなたはどう感じたでしょうか?
そしてご自身だったらどうしますか?

神経症になるかたたちは、自分が「変」であることを極度に恐れています。
こんなことを気にしているのは、世界中で自分一人だけだと思い、その自分の特殊さに恐怖するのです。

ですから、なるべく「変」でないように振舞おうと思い、かえって緊張し、不自然な態度になってしまうのです。

神経質の人たちの集団で、よく囁かれる陰口は「あの人、変よね」というもの。
同質であることで安心するので、ちょっとでも違う人は「変」という、自分が一番言われたくない表現でけなす。

ところが、この「変」であることを嫌う心性というのは、実は「特別でありたい」という心性と同根です(一元論ですよね)。
ですから、本当は(人から認められる形で)目立ちたいという気持ちもあるのです。

さて、変か変でないかという価値基準は、その属する集団によって違ってきます。
「自分は変」と感じさせる多様な人のいる集団では緊張し、同質の集団ではリラックスします。

ですから、自然と行動は内向きになりますね。

けれど、本当はそんな価値観から自由になりたいと思っている人が多いのではないでしょうか?
でも、どうしていいかわからない。

ここでちょっと考えてみましょう。
森田正馬は生前、人から見たら「変」と思われることをした人でした。
もちろん、その行動は奇矯であっても、「合理性」に基づいたものでした。
医学博士であり、大学教授なのに、こんなことする?――という類のことです。
ただ、なんだか「あえてやっていた感」も漂っています。
入院生に見せるという目的もあったのではないかと、私は思っています。

自分の行動を他人の価値観や、他人の目にゆだねないという覚悟でしょう。
それを表した森田の言葉に「唯我独尊」というものがあります。
結構むずかしい言葉だと思いますし、いろいろな解釈ができそうです。
「自分の思惑を人と比較する必要は少しもない」(全集5巻292頁)
つまりどんなことを思い悩んでも、迷っても、それでいい。そこから自分独自のものが生まれてくる、ということでしょうか。
意訳すれば、「自分の頭で考えましょう」とも言えます。

ここで冒頭のマスク集団の話にかえりましょう。
彼らはその後、どんなふうにふるまったのでしょうね? 
コロナの状況をふまえて、あるいは自分の帰属する集団に忠実であるためにマスクをし続けたのか、笑われるのがいやではずしたか?
一方で、自分たちと違う集団のことを「変だから」と笑ったり、写真をとったりすることも、やはり「変である」ことにとらわれている行動ではないかなと思うのです。

白い彼岸花


白い彼岸花、変種でも美しい

日常的な「思想の矛盾」

どなたか調べたところによると、森田正馬全集5巻(形外会の記録)で、森田自身が一番使用している森田用語は「思想の矛盾」なのだそうです。

それだけ、森田にとっては大切なワードだったんですね。

私もこのところ、この「思想の矛盾」を自覚することが、「神経質性格の陶冶」に必須のことなのではないかと思うようになってきました。

「陶冶」というのは、その性格を成熟したものにしていくという意味だと思います。
たとえ症状を克服しても、それですべてOKというわけではない。
長い間、ひとつのことに集中して、自分のことにばかりかまけていたわけですから、知らないこと、気づいていないこと、社会に適応できていないことなど多々あるという自覚は必要です。

その一つが、「思想の矛盾」です。
「かくあるべし」とも言い換えられます。
神経質の中でも、性格に様々なバリエーションがありますが、この「かくあるべし」が非常に強いかたもいるようです。

これは言い換えれば「自分のなかの規則」です。
私が度々出す例ですが、とある人が、「待ち合わせには必ず10分前に行かなくてはならない」という「かくあるべし」を持っていたとします。
自分がこれを守っているぶんには、それはそれでいいと思います。

けれど、こういう人は、他の人もこれを守るべきだと(無意識に)思っています。
だから相手が遅れてくると、口に出さないまでも、ものすごい怒りを感じる。
本当は、「純な心」的には、相手が遅れたら、心配が先にきていいはずなのです。
「どうしたんだろう?」「交通機関が遅れたかな?」という感じがあるはず。

ところが、「こんなに人を待たせておいて、非常識だ」という怒りがきてしまい、その後、相手につんけんした態度をしてしまう。

待ち合わせの時間などもケースバイケース。
大事な会議、会合、飛行機の時間などはもちろん遅れないように気をつけるべき。
場によって厳しさや緩さは違っていいはずです。
別に法律で決まっているわけではない。

「出された食事は全部食べるのが当たり前」と言われて育った人は、たくさん残す人を「無作法」と感じるでしょう。
だから相手が食べたくもないのに、「まだ残っているよ」と強要したりします。
(ちなみに、私自身は小食でなおかつお腹が弱いので食べられないものがたくさんあり、この手の強要に、辟易したことが多々あります。)
これだって、その家の文化というだけで、誰にでも共通するものではありません。

その人にとっての「かくあるべし」はたくさんあり、たくさんあればあるほど、その「かくあるべし」を守らない相手に対して怒りを感じることが多くなるでしょう。
非常に厳しく相手を裁くことになりがちですし、たとえ口に出さなくても、厳しく見られた相手は、息苦しさを感じるでしょう。

神経質の人が、なんとなく人と親しめないと感じるのは、こんな部分もあるのではないでしょうか?
つまり、自分に厳しいだけではなく、その「かくあるべし」を守らない人々にも反発を感じる。

その「かくあるべし」を緩めていくのは、やはり「相手の身になって考える」「相手に共感する」ということを重ねていくことではないかと思います。
(神経質の人だけでなく)いろいろな人と交わって、その人たちのやることを見てみる。

そして、世間は自分が考えているほど厳しいところではないと、実感していくことです。

akinohana

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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