心の中の誰か

クリスマスです。

この頃は「クリぼっち」などという言葉が流行り、一人でいることが何かみじめなことのように言われます。

特に若い人たちには、刺さる言葉なのかもしれません。

でも、一人でいることと「孤独」とは、違うような気がします。
人間であれば、誰でも一人になる時間はあるし、それが全くない人のほうがこわいと思います。

人間には心の中に誰かを棲ませる能力というものがあり、自分のイメージの中に誰かがいれば、そこまで寂しいことはない。

よく映画や小説に、今そばにはいない誰かのためにがんばるというストーリーが出てきます。

そんなふうに、逆境のとき、気持ちが落ち込んだときに、自分を信頼してくれる誰かを思って癒されるということもあるでしょう。

それはたとえば、もう亡くなってしまった人であるかもしれません。
遠いところにいる誰かかもしれません。
昔自分を信頼して、励ましてくれた教師かもしれない。
もしかしたら、身近な人ではなく、自分の尊敬するアーティストということもあるでしょう。
信じている宗教の神かもしれません。

どんな存在でも、心のなかに自分を信頼してくれる(であろう)誰かを棲まわせることは、私たちを内側から強くしてくれます。

それは、誰かを「愛する」ということの、ひとつの形なのだと思います。


クリスマスツリー
 
恵比寿ガーデンプレイス

森田療法における欲望について その2

とうとう今年もクリスマスが近づき、大晦日が近づき、お正月が近づいております。
忙しくはないはずなのに、周囲にあおられるのでしょうか、なぜか用事が増えます。
自分のなかでも、これは大晦日までにスッキリさせたいという気持ちがあるのだと思います。

そんなわけでなかなかブログに手がつけられませんでした。

「欲望」のことです。
前回は、欲望を「かくあるべし」で押しつぶさないということを書きました。

今回は、欲望によって押しつぶされている話。

ときとして、いつまでも悶々と悩み続ける方のなかに、過大な欲望を追い求めている人がいます。

欲望はあっていいもの。
しかし、その目指すところが大きすぎると、かえって自分の足りなさが意識されて苦しむのです。

「理想が高い」という言葉で言い換えることもできますが、「理想」より「欲望」のほうが近い。
理想が変わればいいというものでもなく、何かもっとお腹の底から求めている感じです。

なぜ欲望がそこまで過大になるのか。
多分、その人のどこかに、深い劣等感があるのかもしれません。

防衛機制でいうと、劣等感を「補償」するために、心のなかで大きな理想像を描き、いつかはそうなる自分、皆を見返す自分を欲しているのかもしれません。

それはそれでいい。
しかしこのような過大な欲望が自分を苦しめることがあります。

そういった欲望は、大きすぎるために漠然としている場合が多い。
だから現実の世界では、努力もしているし、いろいろなことを成し遂げてもいるのに、「もっと、もっと」という焦りがいつもある。
実際は多くのことをしているのに、まだまだ劣等感に苦しめられる。

お腹の底から欲している、この「過大な欲望」にどう対処したらいいのでしょう。

まずは、前回のブログで述べたように、これを否定したり抑圧したりしないことです。
欲望は「あっていいもの」ですから。

そして、それを持ちながら、そこに到達するまでの道のりを「具体的に」考えてみる。

イメージしてみると、その道のりのどこかで、ものすごいジャンプが必要になってくるような感じがすると思います。
自分の、欲望達成への道のりが漠然としていることを認識しましょう。

そして、ノートなどを広げて、その達成のために必要なことをひとつひとつ書き出してみる。
必ずや「中間目標」のようなものが出てくるでしょう。
たくさんの通過地点を通らないと、そこまでいけないこともわかるでしょう。

過大な欲望を持つ人は、その「中間目標」すらも達成できない自分を考え、また劣等感へと引きこもってしまうのです。

そんなときには、自分が今まで成し遂げたことも、ひとつひとつ書き出してみましょう。
「こんなこと、くだらない」と思っても、実はたくさんのことをしてきたはずです。

森田療法では「具体的に」ものごとを考えることが大事と言います。

「中間目標」すら達成できないとわかれば、もっと目標を低くする。

時としてそれは、自分の自尊心を傷つけることかもしれませんが、人はそこからしか出発できない。
苦しくても、現在の自分を認める(あるがままの自分を認める)ことによって、何から手をつけたらいいか、わかります。

そうしたらあとは簡単。ただ目の前の身近な目標を辛抱強く達成し続けるだけです。

確かに大きな目標を持ち、野心を持つことは、人を鼓舞します。
しかし時として、それをあまりにリアルに求めすぎるがゆえに、自分が傷つくこともあるのです。


紅葉3


劣等感のお悩み、ご相談ください お茶の水セラピールーム

森田療法における欲望について その1

今回は少し長い引用をいたします。森田正馬全集5巻284頁からです。
ここに書いてあるのと、同じようなことを言われる方が続いたので。

「形外会の自己紹介のときでも、言いたいことの十分の一も言えない。それならそれで満足し安心ができるかというと、そうはいかない。残念でならぬ。ただ自分が弱いからしかたがないまでのことである。このままあきらめることはできない。一晩二晩眠れぬこともある。尻尾を巻くのは、すなわち恐怖である。残念で、あきらめられないというのが、すなわち欲望である。この恐怖と欲望の間の葛藤が大きくて、その苦痛を押しきっていくのが、立派な人であり、偉い人である。その恐怖を否定し、あるいは欲望を捨てようとか、工夫するのが似て非なる修道者であり、強迫観念であるのである。」

よく聞くお話しなのですが、友人との雑談ではいつも聞き役で、話したいことがあるのにまったく発言できない、あるいはディスカッションの時間に、皆が立派なことを臨機応変に発言するのに自分はまったく発言できない。
そんな悩みをお持ちのかたがいます。

それでいい、と思う人なら問題はありません。
つまり発言とか、皆の前で立派なことを言うことに欲求がない人ならばそれでいい。
(欲求が向かうところは、その人によって異なります)

ただその後に「悔しい、残念」という感情が残るなら、それはそこに欲望があるということです。
この感情は、イヤなものかもしれませんが、純な心。大切です。
欲望のありかを示してくれているからです。

恐怖やイヤな感情はありながら、でもどうにかこの「欲望」をかなえようと工夫していくことが、自分を命の流れに乗せることになります。

さて、最後のところで「恐怖を否定し」「欲望を捨てようとする」という言葉が出てきます。今日書きたいのはこのあたり。

つまり、時々自分で自分の「欲望」を否定することで、強迫観念に陥っている人がいるような気がするのです。

つまり「欲望」に対して「かくあるべし」で押しつぶしているのです。

たとえば、「自己顕示欲」などという名前を付けて、「自分にはそんな醜いものはない」と思う。
「名誉欲」や「金銭欲」はあさましいものと思って否定する。
自分には「死の恐怖」はないと公言したりする。
武士道みたいな価値観から来ているのかもしれませんね。

そういう人は、やる気満々の他の人を批判したりするわけです。
「あぁぁ、あんなにがんばっちゃってみっともないな」とか。

ちなみに言えば、本当にそういう欲求が少ない人は人を批判したりしないでしょうね。
気がつかないでしょうから。

欲望を認めることは、恥ずかしいことではない。
欲望があっても、別に公表する必要はないですし、心のなかは何を考えようと自由です。
欲望を否定すると、まるで自分が汚いもののように思えてきます。
むしろ、欲望を自分から隠しているほうが、無意識の嫉妬に変化して悪さをしたりするでしょう。

もうひとつ、堂々と欲望を認めてがむしゃらに何かを獲得しようとすることが森田療法だというわけでもありません。
「こんなにガツガツしてちょっと恥ずかしい」というくらいがちょうどいいのです。
つまり「みっともないかな?」というのも純な心で、それがあるから調和がとれるのです。

「私は森田療法やっているから、自分を認められるようになりました。やりたいことに邁進します!」といって、ただただ前進というのもちょっと違う気がします。

微妙なことなのですが、そのプロセスのなかで、「これはやりすぎたかな? 言い過ぎたかな? 恥ずかしかったかな? 場にそぐわなかったかな?」という気持ちが湧いてきたら、それも大事にする。

そういう繊細さは大事なシグナルで、私たちを調和ある行動に導いてくれるのです。
森田療法は、性格のなかにある 感じやすさ、繊細さや小心さを否定しない。
そのまま活かしながら、よりよい現実生活へと導いていくものです。


紅葉

森田療法をもっと深く学びたいかた、歓迎します お茶の水セラピールーム

依存症と強迫性障害の違い

強迫行為を伴う強迫性障害には、様々な症状があります。

一番よく知られているのが、洗浄強迫。
もうきれいになっているのは自分でもわかっているのに、手や身体を洗ってしまう。
その他にも自分の気のすむまで掃除をしつづける、果てしなく確認しつづける等の症状があります。

同じことをしつこく繰り返しておこなって、それをとめることができない状態です。

似たような症状に依存症というものがあります。これはアディクションとも言われます。
これも一つの行為を繰り返し、やめることができない。

こちらでよく知られているのがアルコール依存症。あるいはギャンブル依存症、薬物依存症、買物依存症、仕事依存症などです。
依存症と強迫行為は、明らかに違うように見えながら、どこが違うのかは判然としない部分があります。

多分、斉藤学先生の本にあったと思いますが、「依存症」には6つの特徴があり、それをすべて持つのが依存症と定義されるそうです。
①  反復性 ② 強迫性 ③ 衝動性 ④ 貪欲性 ⑤ 自我親和性 ⑥ 有害性
 
この6つの特徴で言うと、依存症と強迫行為の差はたった一つ。
⑤の自我親和性があるかないかということだということです。

つまり、依存症はその行為をしているうちは、高揚感があり、気持ちがいいのです。
しかし強迫行為は、自分で「こんなことをしているのはダメだ。なんとかストップしなくては」という切迫した感覚があります。違和感が強いのです。

そういう点で考えてみると、依存症の人が「こんなことをしてはダメだ、人生が破たんする」と思い始めたら森田療法適応になるのかもしれません。
しかしその行為が「気持ちいい」ことだけに、依存症からの回復にはなかなかむずかしいものがあります。
容易に元の状態に戻ってしまう。

さて、このように似たところのある依存症と強迫性障害。
共通して根源にあるのは、その人の「無力感」「自信のなさ」なのかもしれません。

しかし時々、強迫性障害などが苦しいあまり、依存症を併発してしまうかたがいらっしゃるのです。
それは主にアルコール依存。

対人恐怖が苦しくて、人のなかにいるときはお酒を飲んでしまう。
頭のなかに迫ってくる強迫観念が苦しくて、お酒でボーッとすることで紛らわせる。

お酒を飲む方は「少しぐらいならいいだろう」と思われるかもしれませんが、アルコール飲料というのは、非常に依存性が強い物質なのです。
飲んでいるうちに耐性がつきますから、どんどん量が増えていくということになりかねない。

それに、お酒を常飲していると、なんだかその人の「やる気」みたいなものが削がれていくような感じがします。
「これをやらなくてはならないけれど、ま、いいか」
「だるいから明日にしよう」

その人がせっかく持っている「欲望」がどんどんしぼんでいくように見えます。

つまり依存症の人と似たような傾向を持っているからこそ、気をつけないといけない。

ただこれも特徴的なのですが、強迫性障害のかたは、いったんドクターストップがかかるとアルコールをやめるのは早い。
「このまま飲んでいると、死にますよ」などと言われるとスパっとやめる。
つまり強い「死の恐怖」がストッパーになるわけです。

「死の恐怖」がないといういうことほど、こわいものはない。
そういうのを「虚無感」というのでしょうか。

なんとかして生きていこうという欲求、最後の瞬間までよりよく生きたいという欲求。
捨てたくないものですね。


コスモス

歩く「映画」

もちろん映画が歩くわけではありません。
歩くことをテーマにした映画を、このところ続けて見たので。

今はウォーキングに最適の季節なのですが、なかなか出かけるチャンスがなく、ジムのトレッドミルで我慢しています。
せめて、歩くことに関する映画を見ようと、二本見てみました。

ひとつは「星の旅人たち」(原題・The Way)で、歩く場所はスペインの巡礼の道、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう800キロの道です。
もうひとつは「わたしに会うまでの1600キロ」(原題・Wild)。舞台はアメリカ西海岸をメキシコからカナダまで縦断するパシフィック・クレスト・トレイルです。

どちらも淡々と道を歩く映画なので、ストーリー性があったり劇的だったりするわけではありません。

二つの映画に共通するのは、自分の大切な人をなくして、それをきっかけに歩き始めるということです。

「星の旅人たち」では、眼科医をしている男性が、ある日息子の訃報を受け取る。
世界を放浪していた息子は、スペイン巡礼を始めようとした矢先、ピレネー山脈で遭難してしまったという。
息子の遺体を引き取りに行った彼は、息子のバックパックを背負い、遺灰を持ち、自ら巡礼の旅に出る・・というストーリー。

「わたしに出会うまでの1600キロ」は、母をなくした主人公が、しばし自堕落な生活をしていたが、恋人にも去られたのをきっかけに、女性一人でパシフィック・クレスト・トレイルに挑戦する、というストーリーです。

「星の旅人たち」の主人公は、息子の遺灰をまきながら道をたどりますが、徐々に道で出会った人々と心を通わせるようになり、そこに亡き息子の面影を見て、気持ちは癒され、心が開かれていくのです。

「わたしに出会う~」のほうの旅は、もっと過酷です。距離は2倍の1600キロ。
巡礼のように宿があるわけではなく、女性には重いテント一式を背負い、野宿をし、危険な目にあいながらとうとう目的を達成します。
彼女は歩きながら、母の記憶をたどります。
母はDVの夫から二人の子を連れて逃げ、貧しい暮らしをしながらも、向上心と明るさを失わない人でしたが、若くして亡くなります。
彼女は、道中に誰かと出会うということはなく、ひたすら自然のなかで自然と対峙します。
道を歩き切ったとき、彼女を癒したのは、独力で歩きとおした自分の「力」だったのかもしれません。

巡礼の道や、自然のなかの道をたどるルートが、どの国にもあるということは、きっと道を歩く、歩きとおすということに何らかの意味を見出す人が多いからでしょう。

確かに「歩き切った」ときには、自分の力、後押ししてくれた自然の力を身体ごと受け止めるような、かけがえのない感覚を覚えます。

歩いているときには、風景ともゆっくりと向き合えて、「自然」を身近に感じることもできます(時にはこわいこともあるでしょうが)。

うつの時には、疲れない程度に「歩く」ことが推奨されたりもします。
悩んでいるときには、自然の中で歩いてみると、少し気持ちが変わるかもしれません。

平凡な行為でありながら、「歩く」ことのなかには、何か人を変える力があるのでしょうね。

紅葉の美しい季節、できるだけ外に出てみようかと思います。


道

プロフィール

Author:岩田 真理
心理セラピストをしています。臨床心理士。
昔は編集者をしていました。

森田療法が専門ですが、ACや親との問題は体験的に深いところで理解できます。
心のことだけでなく、文化、社会、マニアックな話題など、いろいろなことに興味があります。

もしも私のカウンセリングをご希望でしたら、下のアドレスにメールをください。
info@ochanomizu-room.jp

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